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※沖縄県民斯ク戦ヘリ(大田実司令官の電文)
大田實沖縄根拠地隊司令官 「将 旗」
- クリックして見てください※【写真特集・沖縄戦】日本機へのすさまじい対空砲火
太田實海軍少将略歴および沖縄戦の電文
明治24年(1891)千葉県生まれ
同43年海軍兵学校入校(41期)
(以下略)
昭和16年11月1日付け:支那方面艦隊司令部付き第一遣支艦隊司令部・漢口海軍特務部長拝命
同17年1月15日付け:横須賀鎮守府出仕
同 11月1日付け:任・海軍少将
同 11月20日付け:「八連特」(第八連合特別陸戦隊司令官拝命)
同 18年1月8日:ニュージョージア・コロンバンガラ両島に進出
3月初旬:八連特ムンダに進出
(以下略)
同20年1月15日:第四海上護衛隊(四海護)司令官兼沖縄方面 根拠地隊(沖根)司令官を拝命
(1月30日:島田叡・沖縄県知事、大阪府内政部長から敢然と戦雲迫る沖縄へ赴任、太田少将と肝胆相照らす仲となる)
4月1日:米軍、遂に上陸作戦を開始す。
6月13日:午前1時、幕僚6名と共に自決。(享年54歳)
電文(最期の電文にいたるまで少将はかなりの電文を打電しているので、その中で一際栄える電文を紹介の後、最期の電文を掲載)
・4月3日海軍次官・その他各司令官宛電文:(原文かたかな分)
「本作戦の成否が皇国の興廃の岐(わか)るる所大なること大臣訓示に明らかなり。而して、その健関(けんかん)は航空母艦の撃滅に在ること「ミッドウエー」の戦例に拠るも炳乎(へいこ・・・明らか)たるものあり。今や帝国はまさに其の絶好の機会に遭遇すると共に敵の「北」・「中飛行場」地区に侵入せる今日、日時切迫し、日子(にっし)の経過を許さざるものあり。帝国海軍の航空機、潜水艦、魚雷艇、蛟龍等、其の全力を挙げて主力艦、特に航空母艦撃滅に邁進せんことを望む。この為、既成の魚雷艇、回天、蛟龍等も速やかに当方面に進出方、手配を得たし」
・4月17日・沖根戦闘詳報
「小禄基地陸戦隊陣地、及びその他、終日緩慢なる砲爆撃を受け、高角砲は観測機を配する艦砲及び神山島重砲の集中砲火を蒙れり」
・4月28日
「第32軍命令により海軍部隊は小禄地区に復帰するに決し、直ちに行動を開始。司令部を豊見城(とよみぐすく)に移転」
(以下中略)
・6月6日午後5時32分「決別電報」
「戦況切迫せり。小官の報告は本電を以ってここに一先ず終止符を打つべき時期に到達したるものと判断す。ご了承ありたし。」
・辞世
「身はたとえ 沖縄の辺(へ)に朽つるとも 守り遂ぐべし 大和島根は」
・追っかけ最期の電文:6月6日20時16分発 6月7日1805再送 6月7日1732(受信)
(注:*は判読不明部分)
「発 沖縄根拠地隊司令官 宛 海軍次官左の電**次官に御通報方取り計いを得度(えたし) 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、県は既に通信力なく、32軍司令部、又通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びずこれに代わって緊急御通知申し上ぐ。沖縄本島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき。然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅かに身を以って軍の作戦に差し支えねき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下***風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり。而(しか)も若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出るものあり。所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子が後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵既に出発し身寄り無き重傷者を助けて**真面目にして一時の感情に駆られたるものとは思われず。更に軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するなり。これを要するに陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらざるも)只管(ひたすら)日本人としてのご奉公の護を胸に抱きつつ遂に****与え*ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形******一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支ふるのみなりと謂う。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」
(注:県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを・・・が有名)
・6月7日:指揮下全部隊に訓示電文
「小禄地区に敵来襲以来、各隊連日肉弾特攻精神を以って勇戦敢闘せるは本職の最も心強さを覚え、戦果の期待を大とする所なり。今や当地区の決戦段階に入り、諸子(しょし)益々強靭作戦に徹し、短兵功を焦ることなく極力敵出血を強要し、予ねて覚悟したる小禄死守に海軍伝統精神の発揚と戦果獲得に全力を致さんことを望む。予は74高地(注:司令部壕所在高地のこと)に在り。」
・この電文に対し佐世保鎮守府・杉山長官より激励返電
「驕敵(きょうてき)を邀へ撃つこと既に2ヶ月余、この間に於ける貴隊の勇戦、感謝の他なし。而も重大なる戦況に当面の将兵、欣然一体となり愈々(いよいよ)忠誠の念に徹して士気軒昂、血闘銘記しあるの報告に接し、真に感激に堪へず。本府の全力を挙げて急遽増援するの途(みち)なきに切歯しつつ切に健闘を祈る」
・6月11日第32軍長勇(ちょう・おさむ)参謀長宛打電
「敵後方撹乱、又は遊撃戦を遂行するため相当数の将兵を残置す。右将来の為、一言
申し残す次第なり」
・6月11日 牛島司令官宛電文
「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり。根拠地隊は今11日2330玉砕す。従前の御厚誼(ごこうぎ)を厚く謝し、貴軍の健闘を祈る」
・6月13日 佐世保特別陸戦隊受信
「発 沖根 昭和20年6月12日 1335
1.朝来、敵戦車、及び歩兵、当司令部壕外にい集し、煙弾を打ち込みあり。
2.我が方、凡そ刀を以って戦ひ得る者はいずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり。
3. 74高地2ヶ月余りの奮闘も本日を以って終止符を打つものと認む」
「発 沖根 昭和20年6月12日 1619 これにて通信連絡を絶つ」
明治24年(1891)千葉県生まれ
同43年海軍兵学校入校(41期)
(以下略)
昭和16年11月1日付け:支那方面艦隊司令部付き第一遣支艦隊司令部・漢口海軍特務部長拝命
同17年1月15日付け:横須賀鎮守府出仕
同 11月1日付け:任・海軍少将
同 11月20日付け:「八連特」(第八連合特別陸戦隊司令官拝命)
同 18年1月8日:ニュージョージア・コロンバンガラ両島に進出
3月初旬:八連特ムンダに進出
(以下略)
同20年1月15日:第四海上護衛隊(四海護)司令官兼沖縄方面 根拠地隊(沖根)司令官を拝命
(1月30日:島田叡・沖縄県知事、大阪府内政部長から敢然と戦雲迫る沖縄へ赴任、太田少将と肝胆相照らす仲となる)
4月1日:米軍、遂に上陸作戦を開始す。
6月13日:午前1時、幕僚6名と共に自決。(享年54歳)
電文(最期の電文にいたるまで少将はかなりの電文を打電しているので、その中で一際栄える電文を紹介の後、最期の電文を掲載)
・4月3日海軍次官・その他各司令官宛電文:(原文かたかな分)
「本作戦の成否が皇国の興廃の岐(わか)るる所大なること大臣訓示に明らかなり。而して、その健関(けんかん)は航空母艦の撃滅に在ること「ミッドウエー」の戦例に拠るも炳乎(へいこ・・・明らか)たるものあり。今や帝国はまさに其の絶好の機会に遭遇すると共に敵の「北」・「中飛行場」地区に侵入せる今日、日時切迫し、日子(にっし)の経過を許さざるものあり。帝国海軍の航空機、潜水艦、魚雷艇、蛟龍等、其の全力を挙げて主力艦、特に航空母艦撃滅に邁進せんことを望む。この為、既成の魚雷艇、回天、蛟龍等も速やかに当方面に進出方、手配を得たし」
・4月17日・沖根戦闘詳報
「小禄基地陸戦隊陣地、及びその他、終日緩慢なる砲爆撃を受け、高角砲は観測機を配する艦砲及び神山島重砲の集中砲火を蒙れり」
・4月28日
「第32軍命令により海軍部隊は小禄地区に復帰するに決し、直ちに行動を開始。司令部を豊見城(とよみぐすく)に移転」
(以下中略)
・6月6日午後5時32分「決別電報」
「戦況切迫せり。小官の報告は本電を以ってここに一先ず終止符を打つべき時期に到達したるものと判断す。ご了承ありたし。」
・辞世
「身はたとえ 沖縄の辺(へ)に朽つるとも 守り遂ぐべし 大和島根は」
・追っかけ最期の電文:6月6日20時16分発 6月7日1805再送 6月7日1732(受信)
(注:*は判読不明部分)
「発 沖縄根拠地隊司令官 宛 海軍次官左の電**次官に御通報方取り計いを得度(えたし) 沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、県は既に通信力なく、32軍司令部、又通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども現状を看過するに忍びずこれに代わって緊急御通知申し上ぐ。沖縄本島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面、防衛戦に専念し、県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき。然れども、本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅かに身を以って軍の作戦に差し支えねき場所の小防空壕に避難、尚、砲爆撃下***風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり。而(しか)も若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護婦烹炊婦はもとより、砲弾運び、挺身斬り込み隊すら申し出るものあり。所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子が後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵既に出発し身寄り無き重傷者を助けて**真面目にして一時の感情に駆られたるものとは思われず。更に軍に於いて作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中に遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するなり。これを要するに陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫勤労奉仕、物資節約を強要せられつつ(一部は兎角の悪評なきにしもあらざるも)只管(ひたすら)日本人としてのご奉公の護を胸に抱きつつ遂に****与え*ことなくして本戦闘の末期と沖縄島は実情形******一木一草焦土と化せん。糧食6月一杯を支ふるのみなりと謂う。沖縄県民斯く戦えり。県民に対し、後世特別のご高配を賜らんことを」
(注:県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを・・・が有名)
・6月7日:指揮下全部隊に訓示電文
「小禄地区に敵来襲以来、各隊連日肉弾特攻精神を以って勇戦敢闘せるは本職の最も心強さを覚え、戦果の期待を大とする所なり。今や当地区の決戦段階に入り、諸子(しょし)益々強靭作戦に徹し、短兵功を焦ることなく極力敵出血を強要し、予ねて覚悟したる小禄死守に海軍伝統精神の発揚と戦果獲得に全力を致さんことを望む。予は74高地(注:司令部壕所在高地のこと)に在り。」
・この電文に対し佐世保鎮守府・杉山長官より激励返電
「驕敵(きょうてき)を邀へ撃つこと既に2ヶ月余、この間に於ける貴隊の勇戦、感謝の他なし。而も重大なる戦況に当面の将兵、欣然一体となり愈々(いよいよ)忠誠の念に徹して士気軒昂、血闘銘記しあるの報告に接し、真に感激に堪へず。本府の全力を挙げて急遽増援するの途(みち)なきに切歯しつつ切に健闘を祈る」
・6月11日第32軍長勇(ちょう・おさむ)参謀長宛打電
「敵後方撹乱、又は遊撃戦を遂行するため相当数の将兵を残置す。右将来の為、一言
申し残す次第なり」
・6月11日 牛島司令官宛電文
「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり。根拠地隊は今11日2330玉砕す。従前の御厚誼(ごこうぎ)を厚く謝し、貴軍の健闘を祈る」
・6月13日 佐世保特別陸戦隊受信
「発 沖根 昭和20年6月12日 1335
1.朝来、敵戦車、及び歩兵、当司令部壕外にい集し、煙弾を打ち込みあり。
2.我が方、凡そ刀を以って戦ひ得る者はいずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり。
3. 74高地2ヶ月余りの奮闘も本日を以って終止符を打つものと認む」
「発 沖根 昭和20年6月12日 1619 これにて通信連絡を絶つ」
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廃墟を旅する 【戦場遺跡・地下壕】沖縄海軍根拠地隊司令部壕
沖縄慰霊の日:前夜祭に300人 不戦と平和誓う
毎日新聞 2014年06月22日 21時01分(最終更新 06月23日 09時37分)
沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦の犠牲者を追悼する「慰霊の日」を迎える。沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の沖縄平和祈念堂では22日夜、追悼式の前夜祭があり、遺族ら約300人が亡き人に思いをはせ、不戦と平和を誓った。
遺族代表が鎮魂の火をともし、「平和の鐘」を打ち鳴らす中、参加者全員で黙とうをささげた。主催する公益財団法人・沖縄協会の清成忠男会長が「二度と戦争の悲劇を繰り返さないよう、現在の生活が幾多の尊い犠牲の上に築かれたことを忘れてはなりません」とあいさつした。
隣接する平和祈念公園では、7000本のキャンドルで「命こそ宝」を意味する沖縄の方言「命(ぬち)どぅ宝」を表した「命宝」や「PRAY FOR PEACE」の文字がかたどられたほか、池での灯籠(とうろう)流しもあった。【福永方人】