http://news.naver.com/main/ranking/read.nhn?mid=etc&sid1=111&rankingType=popular_day&oid=001&aid=0007193684&date=20141019&type=0&rankingSeq=8&rankingSectionId=104
朝日新聞社長「過去を冷静に見れば、未来も開かれるだろう」
聯合ニュース 2014-10-19 17:18 (原文は朝鮮語)
「韓日両国のメディア、過度のナショナリズム事態をコントロールする役割が必要」
(東京=連合ニュース)カン・ビョンチョル記者
日本軍慰安婦問題と関連して、いわゆる「吉田調書」誤報事態で、日本の保守勢力から強い批判を受けている日本の朝日新聞の木村伊量社長は、日韓関係と関連して「過去を冷静な目で、一点の曇りない明るい目で見れば、これからの未来も開かれるだろう」と述べた。
木村社長は、韓国メディア振興財団と韓日未来フォーラムなどが主催した日韓のジャーナリストフォーラムに出席するために東京を訪れた韓国のマスコミと16日に会って、「日韓の先鋭問題となるのが慰安婦問題と、日本では竹島と呼ぶ独島をめぐる領土問題」としながらこのように話した。
彼は「日本には『韓国バッシング』の雰囲気がかなり今高まっている」とし「嫌韓など、聞くのもきまりの悪い言葉が出ていて、これが日本全域に拡大されているとは言いたくはないが、一部の保守右翼だけでなく、最近は若者の間でも広がって、憂慮すべき事態へとつながっている」と伝えた。
彼は「韓国内でも、日本に友好的な心を持っていた人が多かったが、最も頂点だった時と比較すると、今は急激に低下した」とし「韓国内でも国粋主義的な雰囲気があると報道で接している」と述べた。
彼は「韓日は切っても切れない関係の国」とし「両国のマスコミが、過度に国粋主義的な事態をうまくコントロールする役割をしながら、長い目で見て友好増進につながることができるよう努力しなければならない。それがジャーナリストの役割だ」と強調した。
木村社長はまた、「あまりにも自国の自尊心を言えば、お互いに衝突する」とし「自尊心を前面に出したアプローチではなく、尊敬を前面に出したアプローチに置き換える必要があります。お互いの違いを認めて、意見を表現することが望ましい」と述べた。
また「日本の文化は韓国の影響をたくさん受けた」としながら「韓半島がなかったら、日本の文化が豊かになることはできなかったと思います。そのような面で、韓国は日本の兄貴格である」と述べた。
彼は「これからも韓国と関係を深めていくべきだというのが私たちの信条」とし「東海と(日本が主張する日本海の名前である)日本海を平和の海にしようという次元で、朝日新聞もできることがないかを見つけるために、韓国のマスコミも知恵を貸してくれれば良さそうだ」と明らかにした。
>また「日本の文化は韓国の影響をたくさん受けた」としながら「韓半島がなかったら、日本の文化が豊かになることはできなかったと思います。そのような面で、韓国は日本の兄貴格である」と述べた。
韓国の影響をたくさん受けた日本の文化というものは、皆無に等しい。
朝日新聞社長の木村伊量は、例えば具体的に何の文化が韓国(朝鮮半島)の影響を受けたのか示してほしい。
それに「韓国は日本の兄貴格である」って……
これは、殺人カルト集団「創価学会」率いる成太作(ソン・テチャク、池田大作)の主張とそっくりだ!

成太作(ソン・テチャク、池田大作)は、韓国仏教会代表メンバーに対し、次のとおり述べたことがある。
「韓国は日本にとって、『文化大恩』の『兄の国』である。『師匠の国』なのである。その大恩を踏みにじり、貴国を侵略したのが日本であった。ゆえに、私は永遠に貴国に罪滅ぼしをしてゆく決心である」
(2000年5月22日付聖教新聞より)
2014年10月16日に朝日新聞社長の木村伊量が韓国のマスコミに対して述べた「日本の文化は韓国の影響をたくさん受けた」「韓半島がなかったら、日本の文化が豊かになることはできなかったと思います。そのような面で、韓国は日本の兄貴格である」は、2000年5月に成太作(池田大作)が韓国仏教会代表メンバーに述べた「韓国は日本にとって、『文化大恩』の『兄の国』である。」とそっくりだ。
ついでに、参考までに、1999年5月3日、福岡県糸島市の福岡研修道場に、成太作(ソン・テチャク、池田大作)の提案で建立させた「韓日友好の碑」という碑がある。

【ピックアップ】
・「安らけき朝の光に 貴国を想う」「師恩の国」「不撓(不屈)の国」「悲劇の祖国に」 (池田大作の祖国である韓国を想う)
・「東海の小嶋へ」(日本へ)
・「小国の倨傲(きょごう) 大恩人の貴国を荒らし」(日本が調子に乗って、大恩人の韓国を荒らした)
・「韓日新時代へ」「韓日友好の」(「日韓」ではなく、「韓日」のオンパレ)
要約すると、「大恩人の韓国を侵略した小国日本は、韓日友好という名の謝罪と賠償を千年することを誓う」となる。
なお、念のため言うが、上述したとおり、韓国の影響を受けた日本の文化というものは、皆無に等しい。
人類が現れて以来、朝鮮半島が日本列島よりも先進地域だったことは一度たりともない。
古来より先進的な文化や技術は、日本から朝鮮半島に伝わった。
●勾玉
勾玉とは縄文時代極初期より伝わる日本固有の装身具で、朝鮮半島へも伝播した。
韓国で多量の縄文系遺物が出土する「東三洞貝塚」からは縄文前期のものと同様のケツ状耳飾が出土している。
現在朝鮮半島で見つかっている勾玉の大部分が日本からの交易品であり、新羅の王冠にも勾玉が使用されているのも注目したい。
勾玉の材料となる翡翠自体東アジアでは日本の糸魚川でしか産出されず、その美しい翡翠で作った勾玉は支那や朝鮮半島の権力者達を魅了してきた。
縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが続々と出土され、6000年前の世界最古の勾玉文化が実証された。

勾玉
●土器
土器は、日本最古の土器(1万6500年前)がほぼ世界最古の土器と考えられていた。

大平山元1遺跡(青森県外ヶ浜町)の日本最古の土器
その後、2012年6月29日、北京大や米国などの研究チームは、世界最古となる1万9千~2万年前の土器片が支那江西省の洞窟遺跡で発見したと米科学誌サイエンスに発表した。
それでも、日本の1万6500年前の土器も世界の他の地域とは比べ物にならない位古い。(9月1日に修正)
そして、2013年4月、料理に使用された土器としては、世界最古となる土器が北海道で発見された!

帯広百年記念館に展示されている「大正3遺跡」から出土した土器片の復元土器=帯広市
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/456796.html
土器で煮炊き、世界最古 帯広・大正3遺跡出土 日英チーム発表
2013/04/11、毎日新聞
帯広市の大正遺跡群「大正3」遺跡で発掘された約1万4千年前の縄文式土器片の焦げ跡に、サケなどの魚を煮炊きしたとみられる脂質が含まれていることを日英などの研究チームが見つけ、11日付の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。チームは、料理に使われた世界最古の土器としている。
農耕が始まる前に発明された土器は、氷河期を乗り越えるため食料の貯蔵などに使っていたとみられていたが、栄養価の高い魚類を料理していたことも示すという。縄文人の暮らしぶりの一端を明らかにする成果。
チームは大正3遺跡のほか、新潟、福井、長野、鹿児島の13遺跡から縄文式土器片計101個を集め、焦げ跡を分析した。
●鉄器
鉄器も、日本から朝鮮半島に伝わった。
日本最古の鉄器は、福岡県糸島郡二丈町の石崎・曲り田遺跡の住居跡から出土した紀元前3~4世紀の板状鉄斧(鍛造品)の頭部とされている。
後漢書・東夷伝によると、辰韓について『倭、馬韓並從市之。凡諸貿易、皆以鐵爲貨』という記述が見られる。
倭人は、朝鮮半島南部が三韓に分立していた時代から、朝鮮半島に行っており、鉄を貨幣のように用いて交易していた。
韓国で2世紀頃の製鉄遺跡が発見されたが、この地域の墓からは弥生時代の倭国製の土器のみが発掘された。

福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
●水田稲作技術
水田稲作技術は、朝鮮半島から日本列島に伝播したのではなく、日本列島から朝鮮半島に伝播したことが確定している。
水田稲作技術が日本から朝鮮半島に伝播したとする理由は主に2つ。1つは遺伝子工学の研究の成果で、もう1つは支那政府機関が20年以上かけて行った品種の調査だ。この2つが決定打になり朝鮮半島経由で日本に米が伝来した可能性がなくなった。
まず、近年、炭素14年代測定法によって、日本の稲作の方が朝鮮半島よりかなり古いことが判った。日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明した。
これに対し朝鮮半島では水稲栽培は1500年程度前までしか遡れない。
次に、米には品種特性を決定づける遺伝子が7種類ある。
稲作の発祥地とされる支那では、NO.1からNO.7まですべて揃っている。
日本の場合、古代から現代に至るまで日本で発見された遺伝子は温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの特有遺伝子2種類しかなく、それぞれNO.1とNO.2としよう。
朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.1だけは存在しない。これは気温が低いと存在できない遺伝子のため支那北部より北では存在できないためだ。
この辺の事情は「栽培稲に関する種生態学的研究」(松尾孝嶺著)に詳述されている。
往来が盛んになればなるほど、多くの種類の遺伝子の米が入る確率が高まるが、日本には2種類しかなく、これが稲作開始の初期から広く分布したため、米の伝来はごく限られた地域から限られた回数しか伝来していないと考えられる。
日本の米の起源と推定される支那南部の地域は熱帯ジャポニカも温帯ジャポニカも同時に存在しているので、両者を1品種ずつ持ってきたと考えられる。
往来回数が多くなると別遺伝子品種が紛れ込む可能性が高くなるので、古代人が遺伝子選別技術を持っていない限りはこの地域だけから流入したと考えるしかない。
一方、朝鮮半島の米はNO.2からNO.7までの6種類が揃っているが、NO.2の遺伝子が70%を占めるので、米が朝鮮半島に導入された初期段階でNO.2の遺伝子が多く伝わっていなければならない。
日本から2種類の米が朝鮮半島に伝播したものの、NO.1の温帯ジャポニカ種は朝鮮半島に根付かずNO.2の遺伝子のみが広まり、そこに支那大陸から米が入ってきて、NO.2の遺伝子を持つ米と交雑したと考えると朝鮮半島の米の遺伝子の説明が付く。
支那大陸にはすべての遺伝子が満遍なくあるので、特定の種類の遺伝子だけを多く朝鮮半島に伝えるのは無理だ。
また、朝鮮半島の水稲栽培は、九州北部と栽培法が酷似していることや、遺伝子学的に日本の古代米に支那大陸から入った米が交雑した米が多いことなどから、水稲は日本から朝鮮半島へ、陸稲は満州経由で朝鮮半島へ伝わったことが判明した。支那政府の研究機関でも調査が進み間違いないという結論だ。

支那大陸から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。
支那大陸では多くの品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島ではRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。
●詳細な関連記事
日本から朝鮮半島への米の伝播について
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html
●弦楽器
青森で出土、世界最古の弦楽器か 3千年前、縄文の木製品
2012/04/28 05:24 【共同通信】
青森県八戸市の是川中居遺跡で出土した紀元前1000年ごろ(縄文時代晩期)の木製品(是川縄文館提供)
青森県八戸市にある紀元前1000年ごろ(縄文時代晩期)の是川中居遺跡から出土した木製品が、現存する世界最古の弦楽器の可能性があることが、弘前学院大(青森県弘前市)の鈴木克彦講師(考古学)らの研究で28日までに分かった。
鈴木講師は、弥生時代の登呂遺跡(静岡市)などから出土した原始的な琴と似ていることから「縄文琴」と命名し「日本の琴の原型ではないか」と話している。
木製品は長さ約55センチ、幅約5センチ、厚さ約1センチの細長いへら型。上部に四角い突起、下部に直径約1ミリの穴や刻みがあるのが特徴。杉かヒバのような材質でできている。
以上が紀元前から日本列島にあった文物や技術などが、その後朝鮮半島へ伝播した主な事例だ。
紀元後になっても、先進的な文化や文物は、常に日本列島から朝鮮半島へと伝播した。
というか、古代においては7世紀まで、朝鮮半島は日本の支配地だったのだから当然だ。
『百済本紀』
397 倭国と国交を結び王子の腆支を人質とする
399 高句麗攻撃のための徴発により人々が新羅に逃げる
402 倭国に使者を送り大珠を求む(大珠の意不明)
403 倭国の使者を特に手厚くねぎらう
405 腆支王即位テンシ(直支、映、枕流王の子)人質となっていたとき枕流王が死去、弟を殺した末弟が王となったために乞うて倭国の護衛により海中の島にて待機してのち王となる
406 晋に朝貢
409 倭国の使者が夜明珠を送る 厚く礼遇する(夜明珠の意不明)
政治的に大和朝廷(倭国)の勢力圏におかれていた朝鮮半島は、文化的にも日本の強い影響を受けた。
このことは、支那の文献にも明記されていた。

新羅・百済はみな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びに之を敬仰し、恒に使ひを通はして往来せしむ。
(新羅、百濟、皆以倭爲大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。)
『隋書 列傳第四十六 東夷 倭國』
●前方後円墳
日本の前方後円墳が3~5世紀に作られたのに対し韓国の前方後円墳は5~6世紀に作られた。
さらに韓国の前方後円墳の出土物に日本の埴輪に酷似した土器類が発見された。

画像は「仁徳天皇陵」(全長486m)
5世紀
仁徳天皇陵は、三段で構成された墳丘と三重の濠が巡らされている日本最大の前方後円墳で、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並び、世界三大古墳の一つといわれている。
その遺物は長持形石棺から、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿、葺石や埴輪などがあり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬形、家形などが出土している。東側の造出しから須恵器の甕が出土した。
ボストン美術館には本古墳出土と伝えられる細線式獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されている。
全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33m
Spec Sheet 全長(Length) 全幅(Width) 全高(Height)
仁徳天皇陵 486m 300m 35m
ギザのピラミッド 229m 229m 147m
秦の始皇帝陵 245m 340m 53m

画像は「月桂洞古墳」(全長46.5m)
5世紀後半から6世紀中葉に作られた韓国の代表的な前方後円墳
日本と韓国の前夫後円墳に関する分かり易いサイトの魚拓
http://megalodon.jp/2008-1025-1447-29/bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=111940&tab=five
「韓国の前方後円墳は倭人の墳墓」 韓国内で前方後円墳が出たら埋め直すニダw
http://unkar.org/r/news/1195388595
3~5世紀ごろの日本の前方後円墳には、金銅製冠帽、金銅製の馬具、金属製の武器、銅鏡、石製やガラス製装飾品、玉、土器など、当時の朝鮮半島などには全く存在しなかった非常に優れた副葬品があった。

笹塚古墳(栃木県)で見つかった金銅製の亀形飾金具

金銅製冠帽(熊本県・江田船山古墳出土)
4世紀頃(391年、倭が、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった「広開土王碑」)から7世紀(白村江の戦い)まで、朝鮮半島は九州などと同様に日本(倭国)の一部だった。
百済の「武寧王」も、その父の「東城王」も、朝鮮半島で生まれたのではなく、日本(九州)で生まれて日本から朝鮮半島に渡って行った人物だ。
ちなみに、日本から朝鮮半島に渡って行った「武寧王」の子「純陀太子」は、日本に人質として来て、その子孫はそのまま日本に住み着いた。
百済の文斤王がなくなり、天皇は昆支王の五人の子の中で、二番目の末多王が、幼くとも聡明なので、内裏へ呼んだ。親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし、武器を与え、筑紫国の兵五百人を遣わして国に送り届けた。これが東城王である。…
『日本書紀』雄略紀
(廿三年夏四月、百済文斤王薨。天王、以昆支王五子中、第二末多王、幼年聡明、勅喚内裏。親撫頭面、誡勅慇懃、使王其国。仍賜兵器、并遣筑紫国軍士五百人、衛送於国。是為東城王。…)
こうして479年、東城王(末多王)が百済王に即位したが、この即位も日本(天皇)によって決められたことが判る。
『日本書紀』武烈四年条(502年)には、この東城王(末多王)の暴虐が記され、武寧王即位が記されている。
「是歳、百済の末多王、無道して、百姓に暴虐す。国人、遂に除てて、嶋王を立つ。是を武寧王とす。」
こうして、百済王に「武寧王」が即位したのだが、「武寧王」も九州(佐賀県)生れの日本人(倭人)だった。
つまり、百済王は、天皇によって決められ、日本(九州など)生れの「東城王(末多王)」や「武寧王」などが日本(九州など)から朝鮮半島に渡って行って即位していたように、百済というのは昔から日本(倭国)の一地方だった。
ところが、朝鮮人や一部の日本人は、よく「百済時代に仏教を日本に伝えた」と主張することがある。
しかし、仏教は百済の文化でも朝鮮の文化でもなく、インドで生まれた文化であり、百済には支那(東晋)経由で伝わっていたに過ぎない。

日本へは6世紀に、百済の聖明王から欽明天皇に仏教が伝来したとされている。
しかし、6世紀の百済は日本(倭国)の勢力圏(属領)だったので、百済王は天皇の手下に過ぎなかったのだから、「百済時代は朝鮮が日本に文化を教えた」という言い方も正しくない。
実態を正確に表現すれば、「日本の支配下にあった百済の聖明王は、インド発祥で支那(東晋)経由で百済にも伝わっていた仏教について、欽明天皇にお伝え申し上げた(報告した)。」ということになる。
しかも、その後朝鮮半島では、新羅が支那(唐)に百済を滅ぼしてもらい、李氏朝鮮時代になると、仏教も滅ぼそうとして弾圧しまくった。

李氏朝鮮時代の仏教弾圧
1番目と2番目の写真は仏教弾圧によって荒れ果てた仏国寺と石窟庵
3番目と4番目の写真は仏教弾圧によって打ち首になった仏像
「百済時代は朝鮮が日本に仏教を伝えた」という主張は、史実(実態)から余りにもかけ離れている上に、今の韓国人が誇りとする李氏朝鮮の悪行を無視した恥知らずな表現だ。
663年、日本(倭国)は、「白村江の戦い」で、唐・新羅の連合軍に敗れ、朝鮮半島に有していた勢力圏を失った。
百済王族は日本列島に亡命し、それ以降は大和朝廷の単純な手下となった。
桓武天皇の在位期間(781~806年)、桓武天皇の命令を受けた百済王の子孫たちは、東北地方(陸奥)の征服を何度も試みたが、大惨敗を繰り返した。
その後、平安時代も、鎌倉時代も、室町時代も、江戸時代も、朝鮮の技術水準や文化水準が日本より高かったことは一度たりともない。
水車については、朝鮮人が1429年に日本に来た時から約500年かけても実用化できなかった。
――――――
日本の技術を学んで帰った通信使
では、日本を訪れた通信使たちは、日本でなにを見、いかに感じて帰国していたのであろうか。室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。それによると「日本の農人水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
(略)
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』(第五十一段)に記されている。その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に捉え、その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、近世に入っても変わりがなかったのである。
『日韓・歴史克服への道』下條正男著
――――――
朝鮮人が水車の技術を導入しようと苦慮していたことに関しては、1880年代になっても金弘集が「朝鮮には灌漑設備がない。水車もない」と未開性を嘆いていた。

金弘集
つまり、朝鮮人は、朴端生が1429年に日本に来た後、500年近くかけても水車を実用化できなかったということだ。
――――――
ある朝鮮通信使の記録
第11次朝鮮通信使節(1763~1764)の一員だった金仁謙の日本紀行文「日東壮遊歌」(東洋文庫)より抜粋
1.大阪を見ての驚き
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう。人家が塀や軒をつらね、その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国の中心部)の壮麗さもこの地には及ばない。」
2.名古屋を見ての驚き
「山川広闊にして、人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、遠路随一といえる。中原にも見あたらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べれば寂しい限りである。」
3.江戸を見ての驚き
「楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様子、橋や船にいたるまで大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える。」
4.京都を見ての妄想
「惜しんで余りあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。」
――――――
それだけではない。
朝鮮には、20世紀の日韓併合まで、【針】も、【樽】も、【車】も、【色の付いた衣服】も、なかった!
朝鮮で【針】、【樽】、【車】及び【色の付いた衣服】ができるようになったのは、全て日本のお陰だった!(詳細記事)
―――――――
我が五千年の歴史はひと言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった。
いつの時代に辺境を超え他を支配したことがあり、どこに海外の文物を広く求めて民族社会の改革を試みたことがあり、統一天下の威勢でもって民族国家の威勢を誇示したことがあり、特有の産業と文化で独自の自主性を発揮したことがあっただろうか。
いつも強大国に押され、盲目的に外来文化に同化したり、原始的な産業のわくからただの一寸も出られなかった。
「われわれのもの」はハングルのほかにはっきりとしたものは何があるか。
我々はただ座してわらを編んでいただけではなかったか。
自らを弱者とみなし、他を強大国視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することは出来ないであろう。
以上のように我が民族史を考察してみると情けないというほかない。全体的に顧みるとただ唖然とするだけで真っ暗になるばかりである。
このあらゆる悪の倉庫のような我が歴史はむしろ燃やして然るべきである。
「朴正熙選集」-我々は今何をいかになすべきか-
朴正熙 韓国大統領
―――――――

朴正熙は、朴槿恵の父。
以上のとおりであり、2014年10月16日に朝日新聞社長の木村伊量が韓国のマスコミに対して述べた「日本の文化は韓国の影響をたくさん受けた」、「韓半島がなかったら、日本の文化が豊かになることはできなかったと思います。そのような面で、韓国は日本の兄貴格である」という発言内容は、事実無根の虚偽だ!
さて、似たようなことは、東京都知事の舛添要一も言っていた。
■ソウル市長に「本当の兄弟のようだ」■

●平成26年(2014年)7月23日、ソウルの朴市長が東京五輪のPRバッジを胸に付けているのを見て、「これで本当の兄弟のようになった」と発言。
ソウル市の「ともだち ようこそソウルへ!」との異例の大歓迎に、舛添は“首相気取り"
舛添は、東京都がソウル市に対して都市型水害対策や地下鉄安全対策の技術提供を行う合意書を締結
■「私が知っている9割以上の日本人は韓国が好き」と息を吐くように嘘を吐く■


●平成26年(2014年)7月25日、ソウル大学で「私が付き合っている限り、9割以上の日本人は韓国が好きだ。一部がヘイトスピーチをして全体を悪くしている」と発言!
■舛添要一の東京都知事室には【朴槿恵とのツーショット記念写真】と【ハングル名札】がある■

10月19日(日)、舛添要一の地元である世田谷区で、【舛添都知事やめろ! デモin世田谷】が、行われた!
http://calendar.zaitokukai.info/skantou/scheduler.cgi?mode=view&no=570
舛添東京都知事リコール活動、第4弾!【舛添(ますぞえ)都知事やめろ! デモin世田谷】
舛添東京都知事リコール活動、第四弾!
【舛添(ますぞえ)都知事やめろ! デモin世田谷】
~東京の財産を、勝手に中国・韓国にばら撒く都知事は辞任しろ!~
【開催日時】10月19日(日)
15時集合
15時30デモ出発
【集合場所】世田谷区羽根木公園 はらっぱ広場

舛添都知事やめろ!デモin世田谷(平成26年10月19日)








舛添都知事やめろ!デモin世田谷(平成26年10月19日)

■動画
【2014/10/19】舛添東京都知事リコール活動第四弾in世田谷1
https://www.youtube.com/watch?v=0aOOvWNuEE4
【2014/10/19】舛添東京都知事リコール活動第四弾in世田谷2
https://www.youtube.com/watch?v=Vrli63PsGsI
【2014/10/19】舛添東京都知事リコール活動第四弾in世田谷3
https://www.youtube.com/watch?v=gFsXma7uL4w
【2014/10/19】舛添東京都知事リコール活動第四弾in世田谷4
https://www.youtube.com/watch?v=m3OB6redqd4
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