●日本統治時代の台湾・・⑩ タロコ峡谷、次高山の風光・・絵葉書
明治27年(1894)、清朝は我が大日本帝国と戦った日清戦争に敗北したため、翌28年(1895)4月17日に締結された下関条約(馬關條約)に基づいて、台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止され日本領土となった。
これ以降、台湾は大日本帝国の外地として台湾総督府の統治下に置かれることとなり、昭和20年(1945)、大東亜戦争終結まで50年間の統治で、未開の地「台湾」のインフラ整備、人材育成、農業開発など、国内内地並みに完成させた。【次高山】
1867年に英国軍艦「シルビア号」が台湾東方海上を航行中発見した山で、以降「シルビア山」(雪爾維亞)と呼ばれていたが、日本統治中の大正12年(1923)4月16日~27日に台湾行幸中の裕仁皇太子(昭和天皇)によって「次高山」と命名された。
標高が日本第一の新高山(3952m)に次ぐ山なので「次高山」(3884m)と命名された模様だ。(現在名は「雪山」)
戦時中を含めて「次高タロコ国立公園」とされていた。
【太魯閣(タロコ)渓谷】
フィリピン海プレートが、東から西に圧迫する造山運動により、地割れや浸食でV字に切れ込んで生まれた大峡谷。
太魯閣国立公園内の太魯閣渓谷(タロコ渓谷)は、立霧渓が大理石の岩盤を侵食して形成された大渓谷で、奇岩怪石の眺めと水の美しさゆえ、台湾の中で最も人気のある観光地である。
「タロコ」の地名は流域の台湾原住民タロコ族の言葉で「連なる山の峰」を指すとも、高名な頭目の名に由来するともいう。
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日本の財を注ぎ、未開の新領土「台湾建設」に精励した多くの日本人労働者が、台湾紹介に使用した絵葉書です。
クッキリ渓両岸に切り立った大断崖の連鎖、世界一の絶壁はただ雄大と言うべきのみ、直立三千尺に及ぶものさえある。
【現在のタロコ峡谷】