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Channel: 一騎当千のブログ
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戦地からの絵手紙 戦死したとは解らず父を待ち生きた幼子国民。

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70年前、幼子4人を残し戦地に出征し戦死した兵士
70年後、我子4人が居ると妻とセックスできないと思い殺した将校

名聞名利の総理大臣は世界遺産登録に関与したと名を残したい為
日本国民と日本国を貶めた
ありもしない強制労働を世界に提示し登録を求め認められる
張本人のアベは逃避か

反日売国の左翼たちは日本貶めの遺産登録を喜んでいる

真の日本人のみが憂えている


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比で戦死の父から届いた絵手紙 心の支えに

 戦地から父が送ってきたはがきには、成長していく愛娘を想像した絵が描かれていた。滋賀県彦根市の主婦、仁保和子さん(77)は、太平洋戦争末期にフィリピンで戦死した父から届いた軍事郵便を大切に持っている。苦労もした戦後、愛情のこもったはがきを読み返しては、心の支えにしてきた。「お父ちゃんが見守ってくれたから、私幸せだったよ」。戦後70年を迎えて、感謝の言葉を改めて伝えたいと思っている。
 父の田村一郎さんは1913年に京都府宮津町(現宮津市)で生まれ、長女の和子さんら4人の子をもうけた。42年にルソン島へ出征し、翌年までに和子さん宛てのはがきが計3通届いた。字が満足に読めない和子さん宛てなのに、カタカナの文章がびっしりとつづられ、色鉛筆で丁寧に描いた絵も添えられていた。
 「和チヤンモ ライネンワ ヨウチエンニイケマスネ ハヤク コノジオ ヨメルヨウニ ナツテクダサイ」「オ父サンノ カエルノオ タノシミニ マツテクダサイ」
 和子さんは手紙を大事に布で包んだり、菓子箱にしまったりして、父の帰りを待った。しかし、物心がついた頃には父の不在が当たり前になっていた。当時は詳しく知らなかったが、父は45年3月にレイテ島で戦死したと聞いた。
父・田村一郎さんから仁保さん宛てに送られた手紙© 毎日新聞父・田村一郎さんから仁保さん宛てに送られた手紙
 中学卒業後、和子さんは母の元を離れて京都市に行き、美容院に住み込みで働くようになった。同僚の元には故郷の父親から手紙が届く。つらくなると、一人で近くのビルの屋上に上がって童謡「里の秋」を歌い、父を思い出した。父の面影はおぼろげだったが、はがきを読み返し「お父ちゃんは近くにいてくれる」と思った。
 無我夢中で働き、滋賀県近江八幡市で理容店を経営していた夫と56年に結婚した。子供2人を授かり、4人の孫、6人のひ孫に恵まれた。同居するひ孫の俊介ちゃん(3)らにはがきを見せながら「お父さんが当たり前のようにいる生活って、幸せなことなんだよ」と語りかけている。
 和子さんも年を重ね体調が優れない日も多いが、色あせたはがきの文面からは、父が励ましてくれているように感じる。「ありがとう」と直接言うことはかなわなかった。その気持ちを伝えるため、今年も宮津市にある父の墓を訪れるつもりだ。【村松洋】




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