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ロータリーエンジン好きだよ

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親の躾と影響でロータリーエンジンの車が大好きな私です。
皆さんはトヨタのロータリーエンジン妨害を知っていますか?
昭和の時代の事だから知らない人が大半でしょうね。
トヨタは卑怯だったのです。


マツダがロータリーにこだわり続ける理由 その歴史をひもとく


© ITmedia ビジネスオンライン 提供
 自動車メーカーはどこも自社のテストコースを持っている。たいていは複数のコースを持っているので、各社の現在の代表的なコースを列記してみよう。トヨタは東富士、日産、ホンダ、スバルは栃木、三菱は岡崎、スズキは静岡の相良、ダイハツは滋賀の竜王、このほかに寒冷地のテスト用コースを北海道に持っているのが一般的だ。
 さて、マツダのテストコースといえば広島の三次だ、自動車好きにとって、トヨタの東富士や日産の追浜、ホンダの鷹栖と並んで、ある意味でメーカーのアイデンティティの1つになっている。
 その三次テストコースが開業50周年を迎え、マツダファンが主催するファンミーティングが開催された。全国から2日間で3000人のマツダファンと、1200台の歴代マツダ車が集まり、さまざまな催しが行われた。「R360」から始まる懐かしい歴代モデルの展示や技術展示、トークショーに加え、ロータリーエンジンの部品を模した三角形の高速周回路でマツダ車オーナーによるパレードランも行われた。
 メインイベントは1991年にル・マンでドラマチックな総合優勝を遂げた「マツダ787B」のデモランだ。しかも車両は優勝車両そのものの55号車である。ハンドルを握るのは優勝チームのジョニー・ハーバートでもベルトラン・ガショーでもフォルカー・ヴァイドラーでもないが、マツダのル・マン・チャレンジに多大な貢献を果たした「ミスター・ル・マン」こと寺田陽次郎氏だ。多くのファンが見守る中、三次テストコースのストレートを個性的な甲高いサウンドを響かせて300km/hオーバーで疾走する姿は圧巻だった。
 と、イベントの紹介そのものは簡単に済ませてしまう。やはり本連載で気になるのは企業の戦略や来し方だからだ。マツダにとって三次のテストコースとは何なのか、当時の企業経営はどんな状況だったのかにスポットを当ててみたい。
●戦前にコルク製造会社としてスタート
 マツダは言うまでもなく広島の会社だ。そしてマツダの人たちは広島愛に溢れている。過去の取材でも広島という土地とマツダの結び付きについてのストーリーは何度も聞いてきた。その話の原初は何と「たたら製鉄」から始まる。
 中国地方は古来から良質な鉄の産地で、「天下五剣」と言われる日本を代表する刀剣のうち、二振りは中国地方で作られたものだ。刀剣のみならず、多くの鉄製品を生み出した金属加工技術を背景に、明治期になると呉市では造船業が盛んになっていく。日本有数の工業都市としての基盤はこうして築かれた。
 マツダの前身である東洋コルク工業は「工業で地球に貢献する」をモットーに、モノ作り都市・広島でコルクの製造業として1920年にスタートして成功を収めた。しかし実はその前に伏線がある。
 東洋コルク工業の事実上の創業者である松田重次郎は14歳のときに広島を出て、大阪で機械製作の修行の後、ポンプ製造の会社を起こして成功していた。四十代半ばにして故郷広島に戻った重次郎は、東洋コルク工業のファウンダーの一人として、設立に加わった。ところが銀行出身の初代の社長が病気のためにわずか半年ほどで辞任したため、急遽社長の任に着いたのである。
 重次郎は社名を東洋工業と改め、社業は順調に発展していたが、1923年、本社が火災に遭い壊滅的な打撃を被った。しかも続いて関東大震災の震災不況に見舞われたことで重次郎は全財産を失うことになるのである。重次郎は失意のどん底で、ブラジルへの移住を考えたほどだったという。しかし偶然にも、国産初の量産二輪車を作った旧知の島津楢蔵と再会したことで、自分の一生を貫く仕事は「機械」にあると考えた重次郎は、もう一度機械設計に立ち戻る決心をする。
●太平洋戦争突入、そして原爆……
 こうして1931年(昭和6年)に東洋工業初の自動車、マツダDA型三輪トラックが発売される。1929年にはニューヨークで世界恐慌の引き金が引かれ、これに巻き込まれた日本経済は内閣が転覆するほどの大混乱の最中である。特に開国以来対米輸出の柱であった生糸の減速が著しく、時の蔵相、高橋是清の英断による積極財政でこの恐慌を脱したのは1932年。ここから日本の急速な重工業化が始まるのである。1937年には重工業生産が軽工業生産を金額ベースで上回る。
 恐慌の影響を脱したとは言え、明治・大正を通して急速に発展した東京と異なり、まだまだ豊かとは言えない広島では、庶民の物流のための三輪トラックが必要だと考えた重次郎は、国家総動員令が発令された1938年(昭和13年)に新たに「グリーンパネル号」を発売する。暗い時代の足音が忍び寄る時代に反発するように、グリーンパネルには「青春・幸福・平和の代名詞」と明るいキャッチコピーが付けられた。こうして東洋工業は三輪車メーカーとしての地歩を固めていった。
 1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まり、1945年(昭和20年)に戦争が終わる。広島の終戦と言えば当然原爆の話をしなくてはならない。爆心地から5.5km離れていた東洋工業本社は幸いなことに被害を免れたが、市内にいた多くの関係者が犠牲となった。重次郎は当日朝、広島市内で床屋に寄ってから出社し、幸いに無事だった。しかし実は床屋ではタッチの差で次の客が現れたのだ。この客は重次郎の散髪を待って席に着いたのだという。彼の安否はわからないが、時間から見て床屋で被災したと考えるのが妥当だろう。もしこの順番が前後していたら、重次郎はここで命を落としていたことになる。奇しくも重次郎70歳の誕生日のことである。
 原爆によって広島が焼け野原になった後、東洋工業の三輪トラックは広島の復興の原動力として活躍した。朝鮮戦争の特需をきっかけに戦後の混乱が収束するのは1950年代に入ってのことだ。1951年になると、重次郎は社長を長男の恒次に譲る。東洋工業はこの間「工業で地球に貢献する」を実践するため多くの三輪トラックを送り出した。しかし時代は徐々に高度経済成長の坂を登り始めていた。
●ロータリーである理由
 1960年代に向けて、日本のモーターリゼーションがスタートする。自動車メーカー各社から大衆車が発売され、東名高速道路の建設が始まる。やがて三輪トラックの時代が終わる空気が濃厚になってくる。
 恒次は、ピラミッド方式を打ち出し、三輪トラックから軽自動車へ、軽自動車から小型車へ、小型車から普通車へという段階的商品展開を狙っていた。
 ところが、ここで思わぬ障害が現れる。当時の通産省である。通産省は護送船団方式で国が主導的に各産業を指導していくことで、国際競争力が得られるという統制経済的な考え方を持っていた。
 通産省構想では、きたるべき自動車貿易自由化に際して、日本の自動車メーカーを再編して3つのグループに統合することで外資と戦う方針だった。1961年6月1日の朝日新聞によれば、以下のようなグループ分けがされていた。
量産車グループ:トヨタ、日産、東洋工業
特殊車グループ:プリンス、いすゞ、日野
小型車グループ:三菱、富士重工、東洋工業、ダイハツ
 これではピラミッド方式どころではない。東洋工業は分割されてそれぞれ別のグループに組み入れられる存続の危機を迎えたのである。
 それを防ぐためには東洋工業は可及的速やかに企業規模を拡大し、通産省に独立存続を認めさせるだけの体力をつけなくてはならない。
 東洋工業は1960年に軽乗用車のR360クーペを発売する。1961年2月にはドイツのNSUと契約を結んだ。実はロータリーの開発が難しいということは最初から分かっていた。しかし、東洋工業が存続するためにはどうしても規模を拡大しなくてはいけない。R360クーペにはオールアルミのエンジンを採用し「白いエンジン」と名付けて大々的に売り出したが、銀行には何のことだか分からない。融資を引き出すためにはもっと誰でも分かるインパクトのある事業計画が必要だったのだ。
 それこそがロータリーである。世間には夢と挑戦の物語として喧伝されているロータリーだが、それは社の存続を賭けた大一番の方便だった。通産省主導の合併を回避し、独立したメーカーとして存続し続けるためにロータリーという打ち上げ花火はどうしても必要だったのだ。
 恒次は次々と手を打つ、NSUと契約した翌月には日本政府の認可を獲得、その翌月には開発に着手する。広島市宇品の埋立予定地に工場用地の購入を決めた。より高性能な小型車や普通車を開発するためにはテストコースも強化しなくてはならない。そして1963年10月、1周4.3km、4車線の幅を持ち、設計速度185km/hという日本で初めての本格的高速テストコースが、広島県三次市で着工された。併設される第1水平直線路は、長さ1.8km、両端に折り返しのためのループを備えていた。綱渡りのように銀行から融資を引き出して、やりくりしながら猛烈な速度で企業規模を拡大させていったのである。
●急ピッチで事業拡大
 1963年10月には東京モーターショーにロータリーエンジンを出品し、恒次自ら銀行と販社を回った。東洋工業の前途を危ぶむ銀行や、販社のスタッフに「ロータリーがあるから大丈夫だ」と説得を続ける。この行脚に同伴したのが後の社長で、ロータリーエンジン開発の指揮を執った山本健一である。山本は技術者として、成長のキーはコンベンショナルなレシプロエンジンにあると考えていたし、社運のかかったファミリア・セダンの発売も控えていた。そのやるべきことが山積している中で、ロータリーなどという変化球にかかわっている場合ではないと思っていたが、販社を行脚して販売スタッフにロータリーエンジンの技術説明を重ねるうちにどんどん引っ込みがつかなくなっていく。
 「嘘から出た誠」と言ったら言い過ぎかもしれないが、こうして東洋工業初のロータリーエンジン搭載車「コスモスポーツ」の開発はスタートする。三次テストコースの第1号として開発されたクルマこそコスモスポーツだった。三次こそがロータリー生誕の地なのである。
 1960年に初めてロータリーエンジンを目にしてから、わずか5年の間に、調印、認可、工場建設、テストコース建設、試作ロータリーエンジンの東京ショー出品、コスモスポーツ・ショーモデルの出品という現在のIT業界も驚愕するような異常な速度で東洋工業は驀進した。コスモスポーツが世に出たのは1967年6月のことである。
 マツダの人は今でも言う。「ロータリーで儲かったことは一度もありません」。オイルショックの危機を迎えたときには当然、燃費に難があるロータリーから撤退することも議論された。しかし「ロータリーを信じて買ってくれたお客さまに対して、ロータリーから撤退したら信義に悖る」として、心血を注いで燃費を改善した。ロータリーはマツダ以外の会社は作っていない。マツダが止めたら、それはロータリーの歴史が終わることを意味する。マツダの技術者は一丸となってサーマルリアクターを何度も改善し続けたり、ポートタイミングを可変にする仕組みを考案して、燃費と排気ガス対策を行うことで、ロータリーの火を灯し続けたのである。
 かつてマツダに、この業界で知らない人のいない名物広報がいた。体育会ラグビー部出身の豪快な人だ。既に定年退職して第2の人生を送っているその人に三次のイベントで久しぶりに会った。「Nさん。787Bがル・マンで優勝したとき、便所で男泣きしたんでしたよね」と筆者が冷やかし気味にそう言うと、彼は答えた。「人生に一度くらい泣くほどの奇跡があったっていいじゃない。あれはさ、レギュレーションとか、燃費とかもうホントいろいろなものがある中で、次がないラストチャンスで優勝できたんだよ。俺はいい体験させてもらったなぁ」。
 筆者は猛烈なスピードで走り抜けるチャージカラーの787Bの甲高い音を聞きながら、彼がどんな思いでこの音を聞いているのかを考えていた。全国から三次に集まったマツダファンの歓声を打ち消して、秋空の下を日本でただ一台のル・マン優勝車が走り抜けて行った。
●筆者プロフィール:池田直渡(いけだなおと)
 1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(カー・マガジン、オートメンテナンス、オートカー・ジャパン)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。
 現在は編集プロダクション、グラニテを設立し、自動車評論家沢村慎太朗と森慶太による自動車メールマガジン「モータージャーナル」を運営中。

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