●日本統治時代の朝鮮・・⑫京城の独立門、南大門・・絵葉書
【朝鮮半島を巡る歴史のあらまし】1392年~1637年・・・明の(属国)
1637年~1897年・・・清の(属国)
1897年・・・日清戦争で日本勝利。下関条約により清の属国から開放され、大韓帝国として独立はしたが・・・
1903年・・・ロシア朝鮮半島を南下。日本の尽力によりロシアの属国化を回避。1905年・・・日露戦争で日本勝利 (日本が大韓帝国の保護国となった)
1909年・・・李氏朝鮮政府が能力不足で財政破綻、外国に莫大な借金で国家運営が難しくなり、国内で李氏朝鮮政府への不満が台頭、日本への併合を望む声が高まり暴動に発展した。
1910年~1945年・・・大韓帝国の要請を受け日本が併合(韓国皇帝、純宗が「請願」し、総理の李完用の指示で、側近の李人稙が密使として動いた)(日本が李氏朝鮮の破綻財政肩代わり)・・(明治43年~昭和20年)日韓併合記念絵葉書(大同門)・・明治43年8月
寺内正毅初代総督 ↓ ↓ 李完用大韓帝国総理大臣1945年~1948年・・・日本の敗戦により米国統治(非独立)
1948年・・・大韓民国成立(米国軍による朝鮮統治によって国家基盤が形成され成立)
1948年・・・軍事独裁政権誕生(李承晩)、北緯38度線が国境と確定。1950年・・・6/25.朝鮮戦争勃発、約400万人戦死(北朝鮮に、釜山周辺まで追い詰められた韓国軍は、国連軍の仁川上陸侵攻と日本からの大量物資補給により逆転、鴨緑江付近まで攻め込むが中共軍の反撃を受け現在国境まで退却)1953年・・・休戦協定成立・・・現在の国境線となる。
日本統治時代の、朝鮮の古刹や風光絵葉書に付いては、右の地図にある●印の地区が殆んどとなります。
但し、絵葉書は見ての通り社寺仏閣など遺跡を丁重に崇める朝鮮総督府のもと、大切に加護整備されており、ここに絵葉書として丁寧に記録されて参りましたが、日本統治終了後、朝鮮半島全域を巻き込んだ朝鮮動乱の戦禍で、何がどれほど保存されているかは定かではありません。
それどころか戦後は【朝鮮総督府庁舎】のように日本帝国残滓の名の下に跡形もなく抹殺解体されてしまったものもあるのです。
順次、ご紹介して参りたいと思います。
日本の財を注ぎ、新しい朝鮮建設に携わった多くの日本人労働者が、朝鮮紹介に使用した絵葉書です。
1897年、日清戦争により日本が清に勝利し、下関条約にて清の冊封体制からの李氏朝鮮の独立を認めさせた。
これにより李氏朝鮮は清の属国支配から解放され、自主独立国家として歩みだすことになり、その記念として清への服属の象徴の一つであった「迎恩門」を壊体し、そのすぐ隣に「独立門」が建設された。
「迎恩門」は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して「九回叩頭する礼」(九回土下座して勅使を迎える行事)を行なう場所だった。迎恩門 (現在は、迎恩門柱礎石だけが残っている)・ (ハングルの説明では「清の使者が、朝鮮王にひざまずく姿」となっているらしい)ソウルに残っている「九回叩頭する礼」のレリーフ
清の勅使の前に、李朝国王がひざまずいている・・・清と韓、服装でも明白な事実。
・ ↑東 大 門 ↑町のスナップ
「崇礼門」(南大門)は、1398年に城郭の正門として建立された。
花崗岩(かこうがん)で造られた土台の上に木造の二重楼閣が建てられており、ソウルにある木造建築の中では韓国最古のものであった。
韓国国宝第一号の「南大門」ではあったが、2008年2月にホームレスが侵入し放火したため全焼してしまった。
・ 2013年4月、新築再建された南大門 (読売新聞)・ 燃焼した花崗岩は、もろくなるので差し替えされているようだ。
【南大門内、天井画】
上=消失前のもの 下=復元されたもの(まるで漫画そのもの、足も与太っている)