誰かが言っているのが聞こえてくる
「ああ、やりてぇ」
何をやりたいの?
アレだよアレ!和歌を勉強しなおすんだ。
なぁ~んだ、「やりてぇ」って言うからアレだと思った。
以下、知っていると面白い転載
平安時代の「逢う」は、ストレートに「セックスする」ということです! 橋本治が明かす百人一首の楽しみ方
鍼灸整体的百人一首ガイド
文/橋本治(作家)
日本の古典は日本の男と相性がよくない
「ビジネスマンに百人一首のおもしろさを伝えてほしい」という話なのですが、私の偏見もあるでしょうが、ビジネスマンは百人一首なんかをおもしろがらないと思いますね。
「おもしろい」と感じるのはどんなにくだらないことであってもと当人的には「役に立つ」と感じられる予兆のようなものですが、ビジネスマンが百人一首に対して「役に立つ」と感じる理由が私には想定できません。
今のところ、百人一首のカルタをとり合う競技カルタを題材にした女子高校生を主人公とする『ちはやふる』という少女漫画が人気になって、アニメ化され広瀬すず主演の実写映画になって、いかにも歌ガルタらしく、「上の句」と「下の句」の二部作に分けて公開されるということを知っておけば、仲間はずれにはされないんじゃないかと思います。ちなみに「歌ガルタ」というのは、和歌の下の句だけを書いてある取り札を取り合うためのカルタで、百人一首以外にも和歌をカルタにしたものはあります。
ビジネスマンに必要なのは、そういう知識だけなんじゃないかと思うのは私の偏見かもしれませんが、そうとばかりは言い切れないと思います。どうしてかと言うと、百人一首に限らず、日本の古典が好きな男は「変わってる」と言われてしまうような存在で、日本の古典は日本の男とあまり相性がよくないからです。
ビジネスマンや官僚は外国語が好きで、やたらとカタカナ言葉を使います。その意味を知らないと、「バカか?」とか「勉強不足」と言われてしまいます。社内の公用語を英語にした企業もあります。
外国語を知らないとちゃんとした仕事が出来ないというのは今に始まったことではなくて、昔からです。奈良時代以前から、日本の公用語は漢文で、中国語を日本的に読んで公用文書にします。「漢文のほうが上等だ」という風潮は今でも残っているから、いざという時には四字熟語を決めゼリフのように使います。
これに対して、日本の古典の中核をなす和文脈の文章は、女によって磨き上げられて完成されたものですから、根本のところで女っぽくて、漢文よりは低く思われます。
和歌とは何か
和歌は、和文脈の古典の典型で、とても心理的です。
ご存知かどうかは知りませんが紀貫之(きのつらゆき)の書いた『古今和歌集』の序文はいきなり《やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける》で始まります。
要は「和歌というものは人の心をベースにして出来上がっている」ですが、イラッとする人はここでまず、「なんでそう分かりやすく書かないんだ」と思うかもしれません。
「和歌」と書けばいいのに、なんだって気取って「やまとうた」なんて言うんだとお思いかもしれませんが、「和歌」は漢字の音読みだから漢文系の言葉で、和歌というのは「漢文系の言葉を使わない」ということを暗黙のルールにしていたので、「和歌」を和文脈の言葉に直して「やまとうた」と言ったのです──というよりも、「和歌」は「やまとうた」の漢文訳で、外国語のほうが通りがいいのが日本です。
和歌というのは、実用的な方面からかけ離れて、人の心のモヤモヤを前提にして言の葉を茂らせるものですから、心のモヤモヤを振り払って仕事にバリバリと取り組みたいというビジネスマンにとって──男であろうとも女であろうとも、「めんどくさいからどっかに行っててくれないか」というようなものでしょう。そういう状態のまま心がギクシャクしても知りませんが。
逢う=セックスする
百人一首の中に、こういう和歌があります──。
逢ふことのたえてしなくはなかなかに
人をも身をも恨みざらまし
ざっと見ると、「あなたとずっと逢えないから、あなたも恨むし自分のことも恨んでしまう」というような和歌だと思うかも知れません。「女だからグジグジ言ってんのかなァ」などと。でもこの作者は男です。
「そうか、心のモヤモヤを和歌にするんだから、男でもこんなにメソメソしてみせるんだ」とお思いかもしれませんが、この和歌は「君に逢えなくて悲しい」という和歌ではありません。
平安時代に「逢う」といったら、これはもうストレートに「セックスをする」です。
なにしろこの時代の女は、下ろした御簾(みす)の向こうにいます。男がやって来ても、御簾の内側に厚い几帳を立てて、男の言うことを一方的に聞くだけで、直接話をするどころか、身動きしてそこにいる気配さえ感じさせません。話をするのは中継ぎの女房を通してだけで、密室性の少ない空間にいるのに、「そこにいるらしいな」と思えりゃ上等なのが普通です。
だから、そういう相手と「逢う」ということになったら、「してもいいわよ」というOKが出たのと同じです。御簾の中に男が入ったら、もう「やるだけ」です。そうなるまでも中間行為などというものはありません。
「逢う」ということはそういうことで、「それがなかったら」ということを読んでいるのがこの歌です。つまり、「セックスということがなかったら、俺は他人も恨まないし、自分にもイライラしないだろうさ」というのが、この歌なのです。真面目な男子中学生の心の叫びみたいなものですが、この歌の作者は中納言という身分の高い男です。
まるでねちっこい演歌の歌詞のようなこの和歌が言っていることは、「ああ、やりてエ!」なのです。
橋本治氏による斬新な桃尻現代語訳とシンプルかつ深い解説で、百人一首の内容と成り立ちが一目瞭然!
そういうことをオープンにすると古典関係者から睨まれるので、適当にぼやかした解釈がはやっていますが、この和歌はそもそもがストレートなことをストレートに言っている作品で、紀貫之の言う《人の心をたねとして》はこういう作品を生むのです。
相手がいなくてただ「やりてエ!」だけだと、「我が身を恨む」だけのようにも思いませんが、そういう人は八つ当たりをして通り魔的痴漢行為に及ぶ──つまり「人も恨む」ですね。意外と、人間の心理は昔から変わっていません(この和歌の作者が暴力的な痴漢行為に及んだというわけではありませんが)。
孤独な中年男性に贈る歌
まァ、今の日本の男は草食系で、夫婦でもあっさりとセックスレスになったりはしますが、そういう《逢ふこと》がめんどくさくなってしまった中高年男が地方へ単身赴任とします。当然、夜は「一人寝」です。「別にしたくはないんだ」と思って、酒で時間を紛らわせて寝てしまうような中年男性に贈るのは『万葉集』にもあって、いつの間にか「柿本人麿作」ということになってしまったこの歌です──。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
なかなかし夜をひとりかも寝む
これは、なんの内容もないことで有名な和歌です。
《あしびきの》は、その後の《山》にかかる枕詞で、なんの意味もありません。《山鳥の尾のしだり尾の》は、その後の「長い」ということを導き出すための序詞(じょし)で、ただ「長い」ということを強調するだけで、雉(きじ)の一種である山鳥の尾羽のことは、ただの「通りすがりのついで」です。つまり、この和歌の上の句全体が何の意味のなくて、「長い夜を一人で寝るんだなァ」と言うだけの歌です。
だから、「なんだってへんなもったいをつけんだよ」と古典が苦手な人なら思います。そもそも「ただ長い夜を一人で寝る」と言っているだけの和歌になんの意味があるのか、という疑問だってありますが、その疑問は若い内だけです。
いつの間にか「一人寝」が当たり前になったりします。それはそれでいいかと思っていても、なんか索漠としたものは残ります。それは、自分のその状態を的確に表す言葉を持たないからです。
「ああ、あしびきだな」と思って「かも寝むなんだな」と思うと、それだけ心が落ち着きます──というか、そのことによって、寂寞(せきばく)状態はもう広がらないと思います。「結局“かも寝む”なんだよな」と思うと、笑っちゃったりもします。「かもねむ、かもねむ」と言っていると、すぐに眠りに落ちるかもしれません。
「柿本人麿作」ということで、この歌からは「中年男のわびしさ」が漂って来るように思いますが、本当のところは「誰の作かは不明」です。だからこの歌は「男を待っている女の心境を詠んだもの」と解することも出来ます。
女が男の来るのを待っていて、「なかなか来ないわねエ、今夜は一人で寝るのかしら」と言っている歌だと取って取れないこともありませんが、ほんとにそうですかね?
仕事バリバリで、来る相手もいない。ふと気がついて「山鳥の尻っ尾」を思い出すような女性ビジネスマン向きの歌かもしれません。
ちょっとした心の凝りをほぐす程度の効用は、あるのかも──。