● 坂野壽男・・・満州での8月15日 ②
昭和20年8月15日の終戦と同時に、ソ連機甲部隊が日ソ不可侵条約を無視して、怒涛のように侵入してきた。撫順守備隊には全員が所持できる武器らしい武器も無く、終戦の報告も無く、只後退をするのみとなり坂野壽男氏は召集前の勤務先、鞍山の徳井洋行商会に帰り着いたのです。
【その逃避行が本日の手記の内容ですが、昭和43年に書かれたモノにも拘わらず「記憶に残ってない」と言う部分が目立ちます。 お許しください】
そして、昭和23年頃、徳井社長等と引揚げ帰国、昭和28年に大阪で石油会社を設立しました。
私も、その500余名の社員の一人として定年まで勤め上げたのです。
坂野壽男氏は、昭和47年頃(1974)定年により退社、平塚市に移り住まれました。
その当時、ネットやブログが在りましたら、そのサイトで手記を発表されたのでしょうが・・・
【満州での8月15日】 (昭和43年、社内誌に発表)
【満州での敗戦脱出行】(昭和62年、コピー冊子を知人発送)の2編が有ります。
召集日から1年弱の除隊兵に近い兵隊ですから、華々しい戦記は何一つ有りませんが、当時の満州の様子が伺える内容となっております。
奉天市街図【前回より続く・・】
さて私達は愈々覚悟のホゾを固めて、最初の難関奉天城内へ足を踏み入れた。
このいわゆる敗残兵どもは、兵営を離れる時支給された携帯口糧としての白米を一足の軍足の中に一杯詰めて、両の腰にぶら下げ、支給の毛布を5枚背中に背負った、誠に珍妙なスタイルで冒頭に述べたとおりの一列縦隊となって隊伍堂々(?)北門より行進を開始したのである。
朝だというのに城内の中華街は、各戸に晴天白日旗を揚げ街中の者が全部道路に出ているのかと思える程、道という道は手に手に旗を持った群衆で溢れ、いわば他動的に転がり込んで来たような戦勝の喜びに沸き返っていた。 中華街特有のニンニク臭を帯びた独特の臭気がグッと鼻をつく。
奉天城内風景
それにしても、この異様な雰囲気につつまれた興奮状態はどうであろう。
割れんばかりの群衆のどよめきと喚声・・・
私達は我が身の上に何が起きるかも解からない不安と緊張に、身体を硬わばらせ乍らも、隊伍は崩さずただ一点だけを凝視しながら行進を続けた。
今考えても街々の様子がどうであったか、又あの張作霖が住んでいた広大な宮殿も、道路がどうなっていたのかも思い出すことが出来ない。
唯、何回となく群衆に取り囲まれたり、何事かののしられたり、身体の何処かを撲られた記憶は残っている。
然し、私達はそんなことの一切にわき目も触れず、眉一つ動かさず、最初の姿勢のまま前進を続けた。
奉天城内、小西関辺門での人車の往来
突然、私の横でカーンという鋭い金属音がした。
二番目を行進していた私は目玉だけを動かして見た。12~3歳の子供が日本軍の鉄兜を力一杯道路に叩きつけた音であった。その音でわずかに石畳の舗道だなと解かったくらいである。
群衆はそれに呼応するように喚声と拍手をした。その瞬間私の膝に強い衝撃を受けた。
その小輩は群衆の喚呼に益々得意になり、その鉄兜を力まかせに蹴飛ばしたのが、私の膝に当たったのだ。
それでも私達は何事もなかったように前進し、やがて待望の南門が見え始め、次第に近づき遂に無事城外に出ることができた。
時間にすれば3~40分くらいであったと思うが、私には何時間にも思える長い道中であった様な気がした。ホッとしたとたん、私の膝がズキズキ痛みだしたのをはっきり思い出します。
「すぐそこに俺の知人が居るから、そこで休ませてもらおう」と一行の一人が城外の静かな佇まいの一角の立派な洋館に案内してくれた。その館で私と同年配と思える夫妻が手を取らぬばかりに暖かく招じいれてくれ、早速朝食を作ってくれて私達はやっと人心地がついた。
「ここは外国公館だから満人が侵入することはありません。いま外へ出ると危険だから暫く様子を見てから出発しなさい」と親切に云ってくれた。
多分北欧の公使館か領事館で留守を預かる日本人スタッフと思われるが、もっと詳しく聞いておくべきだったと残念に思う。
「毎日、城内から何百人もの暴徒が、日本人街へ出かけていますのョ」という夫人の言葉が終わらないうちに、手に手に棍棒を持った数百名が、この公館の前を通り過ぎて行った。
私はその集団を眺めている時、ふいに心臓が止まる様な、又、腹わたが痙攣しそれが身体、手足に伝わる何とも形容のし難い恐怖心で全身が震えたのである。
奉天城と商埠拉の境界線防御
これまで、防衛の第一線で爆薬の入った木箱と運命を共にしようとした時も、危険に身を晒しながら城内を行進している最中にも、別に恐ろしいと感じもしなかったのに「絶対に安全だ」と保障された治外法権の中にかくまわれて、何ゆえにこのような恐怖心に身を震わせなければならないのか。
その時の私には自分の心理状態が理解できなかった。
只、ここに招じ上げられて風呂にゆったり浸かり、暖かい米飯と味噌汁の味にホッとすると同時に「ひょっとすると助かるかなァ」という気持ちが顔をのぞかせたような気がする。
今振り返って当時を回想するとき、微かな生への希望が却って人間の恐怖心を掻き立てたのであろうか。
元来臆病で善良な市民生活の中に住んでいた私に、恐怖心が無かったと言えば噓になるだろう、だがどちらを向いても助かる見込みがない絶体絶命の境地では諦めの気持ちの方が先に出て、恐怖の観念を覆い隠していたのだろう。
ここから鞍山への道のりは遠かった。奉天を脱出するのに3日もかかったのが何よりの証拠である。
陸軍糧秣廠が三日三晩に亘って略奪されてゆく有様、日本婦人を追いかけ回すソ連兵、奉天の市民が毎日の略奪と暴行でおびえ切った姿、今思い出しても敗戦という冷厳な事実を現地で体験した者のみが知る口惜しさであろう。
奉天郊外・・渾河附近.
奉天の街はずれ渾河(こんが=日露戦争の古戦場)の近くで、二百名ほどの暴徒の群れを中央突破で辛くも脱出したこと、沿道の村落には十数名~三十名の棒の先端を血潮で紅く染めた村民が、獲物を狙う鷲のように眼を光らせていたこと、各所で単身除隊の兵隊の犠牲者の屍が放置された姿などを目にしながら、鞍山にやっと辿り着いた時の安堵感は、まるで敵地から母国に帰ったような気になった程、まだ治安が良かったのか、今でも不思議なくらい鮮やかに浮かび上がってくる。
鞍山製鉄所採鉱鉄山 大孤山.
日本に妻子を帰してある私の帰る処は、鞍山の徳井資弘社長宅(徳井洋行(貿易)商会経営)より他になかった。
何しろそこの居候であったのだから・・・
撫順を出発して6日目(8月15日の真夜中の出発)やっとの思いで玄関に辿り着き、案内を乞うと奥から夫人が走り出て「よく無事に帰って来られたわねー」と涙を浮かべながら手を差し伸べられた。
私はその手をしっかり握りしめた時、不覚にも全身の力が一度に抜けて、玄関にへたりこんでしまったのである。
転載元: 泰弘さんの【追憶の記】です・・・