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日本人は、台湾人をもっと知ろう。

日本人はもっと台湾人を知ろうよ。ねぇ、台湾に行こう、それが御礼になり感謝の表れだと思います。鄭 春河さんも検索で調べてみてくださいね。

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台湾・高雄に日本の「軍艦」祭る新堂完成 

日本統治時代の軍港、今も追悼供養

2014.1.10 07:38 msnより台湾
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完成した保安堂新堂に神艦「にっぽんぐんかん」を遷座する管理委員会のメンバーら=2013年12月29日、台湾・高雄市で(吉村剛史撮影)
完成した保安堂新堂に神艦「にっぽんぐんかん」を遷座する管理委員会のメンバーら=2013年12月29日、台湾・高雄市で(吉村剛史撮影)
 日本の「軍艦」などを祭っている台湾南部・高雄市の道教霊廟(れいびょう)「紅毛港保安堂」の新堂が完成し、仮堂から神像や神艦を遷座する落慶祭がこのほど行われた。
 高雄は日本統治時代、海軍と軍港の街として知られた。同堂によると、終戦直後、漁師が漁網にかかった頭蓋骨を地元の廟に祭って慰霊したところ、大漁が続いたため、1953年に保安堂を建立。その後、頭蓋骨が「日本海軍38号哨戒艇の艇長」を名乗って漁師の夢枕に立ち、「部下を日本へ連れて帰れなかったのが残念」と語ったと伝えられている。そこで漁師有志が90年ごろ、「魂だけでも帰れるように」と、「日本の軍艦」の模型を作り神艦「38にっぽんぐんかん」として奉納、追悼供養したという。
 港に面した旧堂は再開発で2007年に移転を迫られ、堂管理委員会では神艦などを仮堂に遷座し、08年から3500万台湾元(約1億2200万円)を投じて新堂を建設。うち100万元(約350万円)は邦人有志の寄付という。

昨年末に行われた落慶祭には、陳菊・高雄市長も参列した。
 市中心部から遠く、邦人参拝客は少ないが、亡父が海軍志願兵だった縁などから毎年、団体で慰霊訪問を続けてきた福岡市の専門学校経営、小菅亥三郎さん(66)は「日本人としてはとてもありがたいこと」と謝意を表明。管理委員会常務監察役の趙麗恵さん(53)も「新堂で新年を迎えられてうれしい。日本からも多くの方にお参りにきてほしい」と語っていた。(高雄 吉村剛史)

【日本人が知らない日本】

「海軍さんの街」に2隻の“日本軍艦” 台湾・高雄 

2013.1.27 12:00
 台湾第2の都市である南部の高雄は人口約280万人。日本統治時代に港湾が整備され、今もコンテナを積んだ貨物船などが絶えず港を出入りし、繁栄しているが、一方では往時と変わらぬ「海軍さんの街」でもある。
 台北-高雄を結ぶ台湾高速鉄道(新幹線)の高雄の駅名は「左営」。高雄市左営区は、やはり日本統治時代に整備された軍港で知られ、現在は台湾海軍の拠点で、その士官を養成する「中華民国海軍軍官学校」も置かれている。戦前の日本なら広島県江田島の海軍兵学校に該当する施設だ。
 金色に輝く「丹陽」のスクリューは、同校の敷地の一角に鎮座している。
 「丹陽」とはかつて中華民国海軍の旗艦を務め、1966年に除籍、69年に解体された艦艇。艦名は中国江蘇省の地方都市名に由来すると同時に、字義は「赤い太陽」である。
 その名が日の丸を連想させるように、元来は大日本帝国海軍の駆逐艦で「雪風」という艦名だった。陽炎(かげろう)型駆逐艦の8番艦として39年(昭和14年)に佐世保で進水した雪風は、翌40年に就役した。
 41年末の真珠湾攻撃による対米戦開戦後は、スラバヤ沖、ミッドウェー、マリアナ沖、レイテ沖海戦など数々の激戦に参加した。
 戦艦大和の沖縄水上特攻作戦にも加わり、沈没した大和をはじめ、僚艦の生存者を救助するなど、常に死地から生還。終戦までほぼ無傷で生き延びた幸運のフネで「奇跡の駆逐艦」と呼ばれ、関連書籍も多い。
 戦後は武装解除して復員輸送艦となり、後に漫画家となる水木しげるさんら多数の将兵を日本内地に帰還させたが、47年に上海で戦勝国、中華民国に対する賠償艦として、塵ひとつない状態に整えられたうえで引き渡された。
 日本海軍では、駆逐艦は厳密には「軍艦」に分類されず、軍艦の象徴である艦首の菊花紋章もない。が、もともと戦闘艦艇の乏しかった中華民国海軍では、この一介の駆逐艦を旗艦「丹陽」として就役させた。
 1949年、国共内戦に敗れた蒋介石と国民党軍は中国大陸を失い、「中華民国」ごと台湾に逃れたが、その際、失意の蒋介石も同艦で渡台したとされる。
 解体前、「雪風」時代の乗員らが「最後の帝国海軍艦艇」の保存を画策したが、結局、日本側には舵輪と錨(いかり)のみが記念として贈られ、現在は広島県江田島の海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)の教育参考館と同敷地で展示されている。
 1月22日、旧正月前の台湾海軍の演習を取材するため、左営の海軍基地を訪れたが、出会った将兵に「丹陽」のスクリューの存在などを話題にしてみたところ、みな一様に首をかしげ、かつての旗艦やその出自にまつわる話は、風化が進んでいる様子だった。
 ところで高雄の街には、もうひとつ日本の「軍艦」関連施設が存在する。
 同市郊外の霊廟(れいびょう)「鳳山保安堂」に祭られている手作りの日本海軍艦艇の模型「にっぽんぐんかん」(日本軍艦)がそれだ。
 堂守らによると、終戦翌年、出漁の際に漁網にかかった頭がい骨を地元漁民らが水難者慰霊のための霊廟「海衆廟」に祭ったところ、大漁が続いたため、53年に保安堂を建立。
 その後、頭がい骨が「戦死した帝国海軍38号哨戒艇の艇長、大田」を名乗って漁民の夢枕に立ち「部下とともに日本に帰りたい」と語ったため、90年ごろから漁民有志らが全長3メートル近い日本の軍艦の模型製造にとりかかり、奉納して追悼供養したという。
 哨戒艇の多くは旧式化した駆逐艦で、やはり日本海軍でいう「軍艦」にはあたらないが、奉納された模型「にっぽんぐんかん」(「か」は片仮名のカに点が打たれている)はどうみても軽巡洋艦級の迫力。当時存在しなかったミサイル風の兵装も施され、艦橋の艇長以下、素朴な兵員らの人形も配置されている。
 由来が示すように、元来このお堂は高雄港に面した漁師町にあったが、再開発のため2007年、郊外に移転を余儀なくされた。現在、新たなお堂が2014年の完成を目指して建設中で、「ぐんかん」は新堂隣の仮堂に祭られている。
 敗れた日本から中国に、その中国から、かつて日本だった台湾に渡った駆逐艦のスクリューと、日本が去った戦後の台湾で、なお慰霊のために祭られている手作りの日本軍艦。
 日本と中華民国、台湾の複雑な歴史が絡み合って、こんにちの台湾に混在していることの証だが、その複雑さが一般のガイドブックで語られることはなさそうだ。(台北 吉村剛史)

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