Quantcast
Channel: 一騎当千のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 8967

[転載]慰安婦問題「河野談話」作成までの経緯・・②

$
0
0

慰安婦問題「河野談話」作成までの経緯・・②

政府が620日に公表した「河野談話」の検証報告書は、いわゆる従軍慰安婦問題に関する表現を巡り、日韓両政府が直前まで綿密に打ち合わせていた舞台裏が浮き彫りになりました。


河野談話を起点として、ここ数年で韓国の喧伝により「慰安婦問題で旧日本軍が直接関与した」とする誤解は世界に拡散されております。
事実関係の調査を蔑にして、韓国との政治的妥協と外交的配慮を優先した、極めて問題の大きな「日韓合作の談話」であり、韓国に完全に揚げ足を取られ、自国を窮地に追いやっていたのです。


   談話を作る際、日韓両政府は表現を事前調整した。
   両政府は事前調整したことは非公表とすることで一致していた。
   日本は「強制性」を裏付ける資料はないと認識。
   韓国人元慰安婦の聞き取りの、裏付け調査は行われなかった。
   アジア女性基金で韓国人元慰安婦61人に「償い金」が支払われた。
   以下、「検証報告書」全文を順に掲載して参ります。

I】河野談話の作成の経緯
1・・宮澤総理訪韓に至るまでの日韓間のやりとり(~1992(平成4年)1月)
2・・宮澤総理訪韓から加藤官房長官発表(調査結果の発表)までの間の期間の日韓間のやりとり(19921月~19927月)
3・・加藤官房長官発表から河野官房長官談話前の間の期間の日韓間のやりとり(19927月~19938月)
4・・元慰安婦からの聞き取り調査の経緯

5・・河野談話の文言を巡るやりとり → 「河野談話発表」(1993(平成5年)83日)


【II】韓国における「女性のためのアジア平和国民基金」事業の経緯
1・・「基金」設立まで (1993年~1994年)
2・・「基金」設立初期 (1995年~1996年)
3・・元慰安婦7名に対する「基金」事業実施 (19971月)
4・・「基金」事業の一時中断 (19972月~19981月)
5・・「基金」による新聞広告掲載 (19981月)
6・・「基金」による償い金事業の一時停止(19982月~19992月)
7・・韓赤による医療・福祉事業への転換(19993月~19997月)
8・・事業転換困難のまま基金事業終了(19997月~20025月)
9・・韓国における「基金」事業の終了と成果

イメージ 1

4・・元慰安婦からの聞き取り調査の経緯

(1)元慰安婦からの聞き取り調査に関しては,19927月~12月にかけて累次にわたり,韓国側からは,
被害者及び加害者からの事情聴取を行ってほしい,
日本側の誠意を示すためにも,全ての慰安婦とは言わないまでも,その一部より話を聞くべき,
日本政府が最善を尽くしたことが韓国人に伝わることが重要である,
日本政府だけでなく地方や外国でも調査を行ったり,関係者の証言も聴取することが望ましい等の指摘があった。

また,韓国側からは,聞き取り調査によって関係者の感情を和らげることができ,また,自分の意思でなかったことを主張している人に対し誠意を示すことになるとの見解が示されていた。
 
(2)日本側においては当初,元慰安婦からの聞き取り調査を始めると収拾がつかず,慎重であるべきとの意見もあったが,199212月までに,上記韓国側見解を踏まえ,「真相究明の結論及び後続措置に関して韓国側の協力が得られる目処が立った最終段階で」,元慰安婦からの意見聴取を「必要最小限の形で」実施するとの対応方針が決定された。


その後,19933月の日韓の事務方のやりとりでは,日本側より,前述(3(4)~(6))の対処方針に沿って,「韓国政府の仲介が得られれば,本件措置のパッケージの一環として元慰安婦代表(複数可)との面会を実施する用意がある」ことを打診した。これに対し,韓国側は,「評価すべきアイディア」とコメントするとともに,「全員から聴取する必要はないであろう」とし,「証人」の立ち会いを求めることはあり得るが,韓国政府は立ち合いを希望しないであろう旨述べた。
 
(3)19934月頃より元慰安婦からの聞き取り調査に関するやりとりが本格化した。その際に,韓国政府が慰安婦問題関係団体への打診を行ったが,韓国政府からは,慰安婦問題関係団体の主張は厳しく,解決を急ぐあまり当事者から証言をとってお茶を濁そうとしているとの反発があるとの説明があった。


また,韓国政府は,真相究明のあらゆる手段を尽くした上での最後の手段として本人のインタビューが必要であるといった位置づけを説明する必要があり,いきなりインタビューを行うと一方的に決めるのではなく,時間の余裕をもって対応する必要がある旨述べた。


その上で,韓国政府から,太平洋戦争犠牲者遺族会(以下「遺族会」。1973年に結成太平洋戦争の遺族を中心に結成された社団法人で,活動目的は遺族実態の調査や相互交流等)及び挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」。1990年に結成。多数のキリスト教系女性団体で構成され,特に慰安婦問題を扱い,日本軍の犯罪の認定,法的賠償等を日本側に要求することを運動方針としている)に打診を行った。


韓国政府からは,このうち,遺族会については,聞き取り調査に応じる用意があるのでこれを行い,挺対協については,聞き取り調査には難色を示しているので,同協会が出している証言集を参考とすることも一案である旨の見解が示されていた。
なお,同年5月中旬には,韓国政府は,聞き取り調査によって新たな事実が出てくるとは思わないが,この問題の解決の一つの手続きとして行うということであろうとの反応を示した。


また,7月上旬に行われた日韓の事務方のやりとりでは,韓国側より,聞き取り調査の実施は最終的に日本側の判断次第であり,不可欠と考えているわけではないとしつつも,聞き取り調査は日本側の誠意を強く示す手順の一つであり,実現できれば調査結果の発表の際に韓国側の関係者から好意的反応を得る上で効果的な過程の一つとなると考えるとの意向が示された。
 
 (4)19935月末~7月にかけて,日本側は,挺対協及び遺族会と相次いで,元慰安婦からの聞き取り調査の実施のための接触・協議を行った。
挺対協については,(3)のとおり,韓国政府から,挺対協の厳しい立場の根底には日本政府に関する不信感があり,それを和らげるためには現地調査の実施やインタビューへの民間人の立会いが必要である旨示唆があった。


韓国政府の示唆を踏まえ,5月下旬に在韓国日本大使館が挺対協との協議に着手したが,挺対協側は聞き取りの実現に,当時日本政府が行っていた追加調査結果の事前提示,「強制性」の認定等を条件として掲げ,日本側とのやりとりを経てもその立場を翻意するには至らなかった。

またその過程で挺対協側より,日本の役人,しかも男性がいきなり来ても誰も心を開いて話はしないとして,慰安婦らの証言については挺対協がとりまとめていた証言集を参考にすることで十分であるとのコメントもあり,最終的に挺対協からの聞き取り調査は断念し,代わりに同証言集をもって参考とすることとなった。
 
(5)一方,在韓国日本大使館は遺族会とも協議を開始し,複数回に亘る交渉を経て,聞き取り調査を実施することで合意した。この際,
聞き取りは静かな雰囲気で行うこととし,場所は遺族会の事務所とすること,
聞き取りに当たっては,全国人権擁護委員連合会所属の弁護士1名及び訴訟に関与した弁護士1名が日本側のオブザーバーとして,遺族会関係者1名が遺族会側のオブザーバーとして,それぞれ立ち会うこと,
遺族会の募集により希望する全ての慰安婦から聞き取りを行うこと,
外部の記者は入れず,また,遺族会の内部記録用としてビデオ撮影を行うが,本ビデオは公表したり法廷で使用したりしないこと,
慰安婦関連の訴訟で原告側の訴状の中に出てくる元慰安婦9名の8証言については,被告である日本政府が訴状をそのまま参考にはしないが,遺族会側がそれら元慰安婦の証言を別の形でまとめたものを参考資料とすること等について一致した。

聞き取り調査は,事前の調整の時間が限られていたこと,また日本側としては元慰安婦の話を聞きにいくという姿勢であったこともあり,前述のとおり遺族会側が手配した場所(遺族会事務所)で行われ,日本側は対象者の人選を行わなかった。


また,聞き取り調査の実施に向けた日本側と遺族会の間の具体的な調整に際し,対象となる慰安婦の選定等については,韓国政府側が何らかの関与・調整等を行った事実は確認されなかった。
 
(6)最終的に,遺族会事務所での聞き取り調査は1993726日に始まり,当初は翌27日までの2日間の予定であったが,最終的には30日まで実施され,計16名について聞き取りが行われた日本側からは,内閣外政審議室と外務省から計5名が従事し,冒頭で聞き取りの内容は非公開である旨述べて聞き取りを行った。


元慰安婦の中には淡々と話す人もいれば,記憶がかなり混乱している人もおり,様々なケースがあったが,日本側は元慰安婦が話すことを誠実に聞くという姿勢に終始した。 
  また,韓国政府側からは,聞き取り調査の各日の冒頭部分のみ,韓国外務部の部員が状況視察に訪れた。
 
(7)聞き取り調査の位置づけについては,事実究明よりも,それまでの経緯も踏まえた一過程として当事者から日本政府が聞き取りを行うことで,日本政府の真相究明に関する真摯な姿勢を示すこと,元慰安婦に寄り添い,その気持ちを深く理解することにその意図があったこともあり,同結果について,事後の裏付け調査や他の証言との比較は行われなかった。


聞き取り調査とその直後に発出される河野談話との関係については,聞き取り調査が行われる前から追加調査結果もほぼまとまっており,聞き取り調査終了前に既に談話の原案が作成されていた(下記5参照)。
 

5・・河野談話の文言を巡るやりとり

19927月の加藤官房長官発表以降,日本側は真相究明及び後続措置について何らかの表明を行うことを企図し,韓国側との間で緊密に議論を行った。
19933月に行われた日韓の事務方のやりとりでは,韓国側から,日本側による発表は,韓国側との協議を経て行われるような趣旨のものではなく,あくまでも日本側が自主的に行ったものとして扱われるべきものとしつつ,発表内容は韓国側をも納得させ得る内容に極力近いことが望ましいとの感想が述べられた。


同年5月の日韓の事務方のやりとりでは,日本側から,発表に対して韓国政府からネガティブな反応は避けたいとして,「強制性」等の認識については,一言一句というわけにはいかないものの,韓国側とやりとりをしたい旨述べたのに対し,韓国側は,種々協力したく,発表文については,その内容につき知らせてほしいと述べる等,発表文を承知したい旨要望していた。


同年728日の日韓外相会談において,武藤外務大臣より,「発表の文言については内々貴政府に事前にご相談したいと考えている」,「この問題については右をもって外交的には一応区切りを付けたい。


金泳三大統領は,日本側の発表が誠心誠意のものであったなら,自分から国民に説明する考えであり,そうすれば韓国国民にも理解してもらえると考えている旨述べていた。


この点を踏まえ,是非大統領に日本側の考えを伝えて欲しい」と述べた。
これに対し,韓昇洲韓国外務部長官からは,「本件に対する日本の努力と誠意を評価したい。日本側の調査の結果が金泳三大統領より韓国国民の前で説明して納得できる形で行われることを期待すると共に,これにより韓日関係が未来志向的にもっていけることを期待している。韓国もこのような結果を待ち望んでいる」と述べた。
 
(1)    また,日本側では,加藤官房長官発表以降も引き続き関係省庁において関連文書の調査を行い,新たに米国国立公文書館等での文献調査を行い,これらによって得られた文献資料を基本として,軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査や挺対協の証言集の分析に着手しており,政府調査報告も,ほぼまとめてられていた。
これら一連の調査を通じて得られた認識は,いわゆる「強制連行」は確認できないというものであった。
 
(2)    その後の談話の文言を巡る日韓間の具体的な調整は,上記外相会談を受けて開始されたが,談話の原案は,聞き取り調査(1993726日~30日)の終了前の遅くとも1993729日までに,それまでに日本政府が行った関連文書の調査結果等を踏まえて既に起案されていた(上記4(7)参照)。


談話の文言の調整は,談話発表の前日となる83日までの間,外務省と在日本韓国大使館,在韓国日本大使館と韓国外務部との間で集中的に実施され,遅くとも731日には韓国側から最初のコメントがあったことが確認された。


その際,韓国側は,発表内容は日本政府が自主的に決めるものであり,交渉の対象にする考えは全くないがとしつつ,本問題を解決させるためには,韓国国民から評価を受け得るものでなければならず,かかる観点から,具体的発表文を一部修正されることを希望する,そうした点が解決されることなく日本政府が発表を行う場合は,韓国政府としてはポジティブに評価できない旨述べた。
その後,韓国側は,上記文言調整の期間中複数回に亘りコメントを行った。


これに対し,日本側は,内閣外政審議室と外務省との間で綿密に情報共有・協議しつつ,それまでに行った調査を踏まえた事実関係を歪めることのない範囲で,韓国政府の意向・要望について受け入れられるものは受け入れ,受け入れられないものは拒否する姿勢で,談話の文言について韓国政府側と調整した。


韓国側との調整の際に,主な論点となったのは,
慰安所の設置に関する軍の関与,
慰安婦募集の際の軍の関与,
慰安婦募集に際しての「強制性」の3点であった。
慰安所の設置に関する軍の関与について,日本側が提示した軍当局の「意向」という表現に対して,韓国側は,「指示」との表現を求めてきたが,日本側は,慰安所の設置について,軍の「指示」は確認できないとしてこれを受け入れず,「要望」との表現を提案した。


また,慰安婦募集の際の軍の関与についても,韓国側は「軍又は軍の指示を受けた業者」がこれに当たったとの文言を提案し,募集を「軍」が行ったこと,及び業者に対しても軍の「指示」があったとの表現を求めてきたが,日本側は,募集は,軍ではなく,軍の意向を受けた業者が主としてこれを行ったことであるので,「軍」を募集の主体とすることは受け入れられない,また,業者に対する軍の「指示」は確認できないとして,軍の「要望」を受けた業者との表現を提案した。


これらに対し,韓国側は,慰安所の設置に関する軍の関与,及び,慰安婦の募集の際の軍の関与の双方について,改めて軍の「指図(さしず)」という表現を求めてきたが,日本側は受け入れず,最終的には,設置については,軍当局の「要請」により設営された,募集については,軍の「要請」を受けた業者がこれに当たった,との表現で決着をみた。
なお,「お詫びと反省」について,日本側は,「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた方々ひとりひとりに対し,心からお詫び申し上げる」との原案を提示し,韓国側は,「お詫び」の文言に「反省の気持ち」を追加することを要望し,日本側はこれを受け入れた。

                         ・                        宮澤総理     金泳三大統領

イメージ 3イメージ 4

この交渉過程で,日本側は宮澤総理,韓国側は金泳三大統領まで案文を上げて最終了解を取った。
慰安婦募集に際しての「強制性」について,どのような表現・文言で織り込むかが韓国側とのやりとりの核心であった。


82日の段階でも,韓国側は,いくつかの主要なポイントを除き,日本側から韓国側の期待に応えるべく相当な歩み寄りがあり,その主要な点についても双方の認識の違いは大きくないと述べる一方,越えられない限界があり,韓国国民に対して一部の慰安婦は自発的に慰安婦になったとの印象を与えることはできない旨発言していた。


具体的には,日本側原案の「(業者の)甘言,強圧による等本人の意思に反して集められた事例が数多くあり」との表現について,韓国側は,「事例が数多くあり」の部分の削除を求めるも,日本側はすべてが意思に反していた事例であると認定することは困難であるとして拒否した。


また,朝鮮半島における慰安婦の募集に際しての「強制性」にかかる表現について,最後まで調整が実施された。
82日夜までやりとりが続けられ,「当時の朝鮮半島は我が国の統治下」にあったことを踏まえ,慰安婦の「募集」「移送,管理等」の段階を通じてみた場合,いかなる経緯であったにせよ,全体として個人の意思に反して行われたことが多かったとの趣旨で「甘言,強圧による等,総じて本人たちの意思に反して」という文言で最終的に調整された。


最終的に83日夜,在日本韓国大使館から外務省に対し,本国の訓令に基づくとし,金泳三大統領は日本側の現(最終)案を評価しており,韓国政府としては同案文で結構である旨連絡があり,河野談話の文言について最終的に意見の一致をみた。


イメージ 2

 (3)   以上のとおり,日本側は,(2)にあるように,関係省庁における関連文書の調査,米国国立公文書館等での文献調査,さらには軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査や挺対協の証言集の分析等一連の調査を通じて得られた,いわゆる「強制連行」は確認できないという認識に立ち,それまでに行った調査を踏まえた事実関係を歪めることのない範囲で,韓国政府の意向・要望について受け入れられるものは受け入れ,受け入れられないものは拒否する姿勢で,河野談話の文言を巡る韓国側との調整に臨んだ。


(4)また,日韓間でこのような事前のやりとりを行ったことについては,199382日,日本側から,マスコミに一切出さないようにすべきであろう旨述べたのに対し,韓国側はこれに了解するとともに,発表の直前に日本側からFAXで発表文を受け取ったと言うしかないであろう旨述べた。

また,84日の談話発表に向けて日本側事務方が用意した応答要領には,韓国側と「事前協議は行っておらず,今回の調査結果はその直前に伝達した」との応答ラインが記載された。
 
 (5)上記次第を受け,199384日,日本側では,河野官房長官より,これまで行われてきた調査をまとめた結果を発表するとともに,談話「河野談話」を発表した。
   
イメージ 5
イメージ 6










      河野官房長官談話  (199384日)
 
いわゆる従軍慰安婦問題については,政府は,一昨年12月より,調査を進めて来たが,今般その結果がまとまったので発表することとした。
今次調査の結果,長期に,かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され,数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は,当時の軍当局の要請により設営されたものであり,慰安所の設置,管理及び慰安婦の移送については,旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。
慰安婦の募集については,軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが,その場合も,甘言,強圧による等,本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり,更に,官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また,慰安所における生活は,強制的な状況の下での痛ましいものであった。
なお,戦地に移送された慰安婦の出身地については,日本を別とすれば,朝鮮半島が大きな比重を占めていたが,当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり,その募集,移送,管理等も,甘言,強圧による等,総じて本人たちの意思に反して行われた。
いずれにしても,本件は,当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は,この機会に,改めて,その出身地のいかんを問わず,いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。 
また,そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては,有識者のご意見なども徴しつつ,今後とも真剣に検討すべきものと考える。
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく,むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。
われわれは,歴史研究,歴史教育を通じて,このような問題を永く記憶にとどめ,同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
なお,本問題については,本邦において訴訟が提起されており,また,国際的にも関心が寄せられており,政府としても,今後とも,民間の研究を含め,十分に関心を払って参りたい。

(6)「強制性」の認識に関し,河野官房長官は同日行われた記者会見に際し今回の調査結果について,強制連行の事実があったという認識なのかと問われ,「そういう事実があったと。結構です」と述べている。
また,「強制」という言葉が慰安婦の募集の文脈ではなく慰安所の生活の記述で使われている点につき指摘されると,河野官房長官は「『甘言,強圧による等,本人たちの意思に反して集められた』というふうに書いてあるんです。意思に反して集められたというのはどういう意味か。お分かりだと思います」と述べた。


さらに,公文書で強制連行を裏付ける記述は見つからなかったのかと問われ,河野官房長官は,「強制ということの中には,物理的な強制もあるし,精神的な強制というのもある」,精神的な強制という点では,「官憲側の記録に残るというものではない部分が多い」,「そういうものが有ったか無かったかということも十分調査を」し,元従軍慰安婦から聞いた話や証言集にある証言,元慰安所経営者等側の話も聞いたとした上で,「いずれにしても,ここに書きましたように,ご本人の意思に反して,連れられたという事例が数多くある」,「集められた後の生活についても,本人の意思が認められない状況があったということも調査の中ではっきりしております」と述べた。
 
(7)河野談話発表後,韓国外務部は,「日本政府が今次発表を通じ,軍隊慰安婦の募集,移送,管理等において全体的な強制性を認定し,また軍隊慰安婦被害者に対する謝罪と反省の意とともに,これを歴史の教訓として直視していく等の決意を表明した点」を評価したい旨の論評を発表した。


また,在韓国日本大使館から外務省に対し,に加え,同問題の扱いを巡っては頻繁に韓国政府と協議をしつつ,日本側の率直な考えを伝え,かつ韓国側のコメントを可能な限り取り入れてきた韓国側報道は事実を淡々と述べ比較的肯定的な評価のものが多いこと,韓国外務部は積極的に協力していたことを指摘した上で,その背景として,調査結果と談話が全体として誠意に満ちたものであったことに加え,同問題の扱いを巡っては頻繁に韓国政府と協議をしつつ,日本側の率直な考えを伝え,かつ韓国側のコメントを可能な限り取り入れてきたことがあると考えられること等を報告した。
 
 (8)日本側において検討され,韓国側とも種々やりとりが行われてきた日本側による元慰安婦への「措置」のあり方については,河野談話の発表を受け,両国間でより詳細な議論が行われることとなる。

【II】韓国における「女性のためのアジア平和国民基金」事業の経緯 ・・へ続く・・


●内閣府の「慰安婦を巡る日韓間のやりとりの経緯」6/20 ・・ 
http://www.mofa.go.jp/files/000042173.pdf 



転載元: 泰弘さんの【追憶の記】です・・・


Viewing all articles
Browse latest Browse all 8967

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>