⑰ 坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①
〇〇先生、
毎年8月と言えば、日本にとって忌まわしい日がやって来るのを避けようがありませんが、たまたま19年前、会社の担当者にせがまれて、当時の社内誌に「満州での8月15日」として寄稿したのが書類整理中に出てきたので、〇〇先生にはどの様に受け取って下さるかと、恐る恐るお送りしたのですが、何度も読み返してくださった由、有難うございました。
何しろ急かされて字数の制限まであったとはいえ、読み返してみると、之また悪文の見本のようで、お恥ずかしい次第です。それに想い出としても愉快な事でもないので、本当は忘れてしまいたいところですが、この「8月15日」という日がまた巡ってくると、もうあれから42年も経つのかと改めて歳月の流れの速さに驚くと同時に、こうして毎日無事に生きている自分の過去を振り返ると、やはり多少感情の揺れといったものを感じるのは止むを得ないことなんでしょうね。
又、人間の一生には、その人なりの起伏があるのは仕方のないことだとすれば、私のこれまでの78年の生涯を通じて、一応外見的には最も劇的な一幕であったと言えるかも知れません。
現在はいたずらに老醜を晒しているに過ぎませんが、いやそれであるから尚のこと運命の女神が「男の花道」を取り違えられた経緯を書き残しておくのが私の義務かな?・・・などと考えております。
世の中の数多い戦記や体験談に比べたら、取るに足らぬ貧弱な経験ですが、自分にとっては生涯で恐らく二度とはないに違いない満州での終戦の周辺の事実を、いわば「戦争を知っている世代」から「戦争を知らない世代」へのメッセージの形で書いていると云うことをご承知の上で読んで下されば有り難いと思います。
昭和62年8月(1987) 坂野 寿男
召集前の・・坂野寿男氏
⑰ 坂野寿男・・敗戦・満州脱出行①
【本文中、憶えていることが抜け落ちて・・と、その都度説明を加えているのが多過ぎの感じです・・・お詫び致します】
奉天城内(現在=瀋陽市)を無事に通過できたのは、今考えても殆んど奇跡に近いという気がします。
又、あの頃には追加することは何もありません。
ほんとに単純明快で、あれ以外の事は何も覚えておりません。
ただ、あの状況下、どうして無事に満人の騒ぐ城内を通過できたか、不思議というより無いのですが、無理に理由を付ければ全員私服であったこと、5人の少人数というこの二つ以外には考えられません。
これが彼等の嫌がらせや悪罵の対象にはなっても「あいつ等に構うより、この戦勝の喜びを祝おう。もう日本人が主人ではないのだ。我々が主人なのだ」という気分が強かったのではないかと考えられます。
北門から奉天城内に入る前、米軍の飛行機が一機上空を舞って、しきりにビラを撒いておりました。
駐支米軍司令官の名で「日軍降伏」という意味のチラシだったのです。
前の文で、私はこの城内を「異様な雰囲気、割れんばかりの喚声」と表現しましたが、私の推量に間違いなければ、城内の満人たちもこのチラシによって勝利を今知ったばかり・・・というタイミングが私達に幸運をもたらしたと考えられます。
⇧ 奉天市新市街 ⇧ 奉天城内旧市街
それから私達を暖かく持て成してくれた公館を辞したのが、翌日であったか、その日の夕刻であったのか憶えておりません。
あれほど恐怖心に襲われ、この家の玄関から一歩外へ出るのも怖いと思った筈なのに、さよならの時は記憶にないのです。 しかも、布団で寝たという記憶もないところをみると、暴徒が出払って静かになった時を狙ってさよならをしたのでしょう。
それほど家路を急ぐ気持ちが私達に強かったのだと思います。
然し、敗戦というそれまでの常識では考えることも出来なかった混乱の中で、簡単に鞍山へ帰れると思っていた私達にも大きな認識の甘さがありました。
奉天督軍の営門、東轅門
私達は、それから仲間の一人の知人宅にも立ち寄りました。
そこの主人が敗戦以来の数日の街の変貌してゆく有様をこと細かに語ってくれましたが、具体的なことは何一つ憶えておりません。 憶えているのは立ち寄った時の大変な喜びようと、辞去する時の如何にも同胞の協力を得られない淋しげな落胆の様子が、当時の奉天市民としての日本人一般の心細さの象徴として強く印象に残っています。
同時にこれはただ事では済まないぞ、という胸を締め付けられるような切迫感を抱きつつ昭和製鋼所(本社・鞍山)の寮に向かって出発しました。
その途中、その場所を思い出すことは困難ですが、何でも広い幹線道路から西に延びる商店街を10mほど歩いて左に入る路地の奥、5~6軒目東側の木造2階建ての家だったと記憶しています。
「兵隊さん、よく来てくれた」大喜びで迎えられましたが「さあこれを持って」と渡されたのが、何と樫の木の棍棒一本づつでした。
よく見ると私達が銃剣術練習の時使用した木銃で、然も銃身の方を切断した銃台の方だけ、何でも長尺のものは禁止されているとのこと。 この棒を護身用にして早速その日から、歩哨の任務に就かされました。
正直「これは大変なことになった。殊によると鞍山へは帰れないかも知れぬ」と思いました。 と言って兵営を飛び出さなければ、ソ連の捕虜としてシベリアへ連れて行かれるのは確実だし、だからと言って奉天市民の為に命を捨てるには、何か割り切れないものが残る。
戦争に負けた悲哀がひしひしと我と我が身を締め付けるのでした。
その翌日だったと思います。 私達が最初入って来た路地の反対の方向に歩哨に行き、間もなく広い通りに出ました。 その通りには人で一杯でした。
随分賑やかだなと思ってよく見ると白布や、綿糸の束、軍足の束、食糧品らしい紙袋、缶詰、メリケン粉の袋など、それぞれが手に抱えきれないくらい持った行列が延々と続いているのです。
略 奪
何事だろうと見ていると、傍にいた男が忌々しそうに「皆あれは、陸軍糧秣廠から略奪しているんだョ、もう二日二晩も続いているョ、然し有る処には有ったんだねェ」 私達は自分が身ぐるみ剝ぎ取られるような、何とも言えぬ嫌な気分で寮に戻りました。
「兵隊さん、握り飯が出来たよ。さあ食べてくれ」私の記憶では、あの公館は別にして、米の飯を食べたのはこれが最後でした。
5人でヒソヒソ話をしているのが聞こえたのでしょうか、ここの寮母が「なに? 鞍山へ帰るんだって! 飛んでもない。 ここ奉天から出られやァしませんよ」 奉天市内から外へ出る要所要所に50人から100人、多いところでは200人以上の暴徒が待ち伏せていて「今出たら殺される、もう沢山殺されているよ、それよりここに居て私達を護ってください。兵隊さん!頼むから行かないで・・・」
「兵隊」と名がつけば、この弱々しく貧弱な身体でも、頼もしく見えるのだろうか?
内心面映ゆさと心細さを感じながら、これはえらいことになった、少なからず絶望感が心の底をよぎりました。そして聞くニュースと言えば暗いものばかりで、曰く婦女暴行、略奪、殺人等々です。
雄大なる奉天城々壁「大西門」
その翌日、私達は路地の商店街出口付近で立哨していました。
携えている木銃の成れの果ての棍棒は、何となく頼りなくて困っておりました。
ふと大通りの方へ眼をやると一人のソ連兵がのこのこ商店街の方へ歩いて来ます。
近づくと酔眼朦朧として顔は真っ赤、あいつらは昼間から酒が飲めるのか・・・と思っていると、この路地から少し斜め前の扉の開いていた店にフラフラと入って行きました。
「おや、どうするんだろう?」と見ていると、血相を変えて二階に駆け上がってきたのは白いエプロン姿の主婦でした。
顔面蒼白、オロオロ声を発しているが、全く意味を成していません。
恐怖に引きつった顔、後ろを振り返り、振り返り、手摺を越えて屋根に出ました。
ソ連兵が手摺に近づくと、女性は屋根の端まで来て一瞬躊躇していたが、切羽詰まって飛び降りたのです。 ハッとしたのはむしろ私達の方でした。
彼女は地面に顔を伏せてうずくまっていたが、はじかれる様に立とうとして、足が折れたか、くじけたらしく苦痛に歪んだ顔が今でも眼に浮かびます。
私達が駆け寄ろうとするより早く、這いずるように向いの家の方へ駆けつけた人に助けられ姿を隠しました。
赤鬼の様なソ連兵は、ズボンのバンドを占め直しながら不機嫌そうにブツブツ言いつつ立ち去った。
これは私達にとって大変なショックでした。 「話」としてはこれまで幾度となく聞いた話の一断面にしか過ぎない現象ですが、それをこの眼で直接見たのです。 カーッと血が逆流して、耐えきれぬ憤怒が身体を震わせると同時に「敗戦」の二文字が浮かび上がり、どうにもやり場のない口惜しさに心が呻いたのです。
女性が危難に遭遇した時「アレーッ」「キャーッ」とか「助けてーっ」などと、大声で叫ぶものとばかり思っていた私は、3~40歳のこの婦人の全く意味をなさないオロオロ声に、本当の危険に出会ったらあんな芝居がかった声など実際に出せるものではないと、その時初めて気付きました。
これ迄、奉天市民の怯え、苦しみ、口惜しさの体験を数多く聞いてはいましたが、実感としては今一つピンとしたものが申訳けないこと乍らなかったのです。 この現実を目の前にして彼らの苦しみの実態が初めて我が物として現実味を帯びてきたのです。
同時に我が街、鞍山でも我らの知人が同様の苦しみを味わっているに違いない。
どうせ一度は、あの味もそっけもない木箱爆弾と抱き合い心中をするつもりだったのだ。
木箱爆弾を使うとすれば、出来るものなら我が街鞍山でと、私ばかりか他の4人も期せずして同じ思いが生まれたようでした。
転載元: 泰弘さんの【追憶の記】です・・・